12/2今週の一言

12月2日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書9章1-8節を学びました。「中風の人をいやす物語」は、マルコ福音書2章1-12節・ルカ福音書5章17-26節にも収められています。マタイはマルコをどのように受け継いでいるのでしょうか。

いつものようにマタイはマルコを圧縮します(約3分の2の分量へ)。特に省略されているのは、中風の人を担いできた人々についての言及です。すなわち、患者の友人である四人の男性が、群衆によってイエスのところまでたどり着けないと見るや、他人の家の屋根を剥いで、寝床ごと友人を吊るし下ろしたという一連の行為が、完全に省かれています。

この編集上の効果は、イエスと律法学者の論争に焦点を合わせることにあります。「イエスは律法学者のようではない方・権威を持つ方である」という主張を、マタイはすでに7章29節で行っています。両者の対立構造を描き、それが十字架で処刑されることにつながることを、マタイは描きます。「神への冒涜」(3節)は、イエスの処刑理由です(26章65節)。

マタイの意図に則り、両者の論争について立ち止まって考えてみましょう。ここで問題になっていることは、二点あります。一つは、当時の常識である「本人またはその縁者が罪を犯した結果、人は病気を患う」という考え方です。因果応報/因果律とも言います。もう一つはイエスの提起、病人に向かって「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいのかという問題です。なお、ここで「罪」という単語はすべて複数形で書かれているので、いわゆる「原罪(人間の持つ根本的な倒錯)」は、この物語では想定されていません。

類似の場面でイエスは因果律を否定しています(ヨハネ9章3節。エゼキエル18章20節も参照)。因果律は、病気で苦しむ人をさらに苦しめる「二次被害」をもたらします。患者だけではなく類縁の者たちにも差別は及びます。そのような不条理の苦しみを負わせることに宗教が加担することに、イエスは憤っています。当時、地域の祭司が地域の人々の「罪の判定権限」を握っていました。祭司が「この病気は罪の結果である」とも、快方後に「あなたの罪が赦された」とも言えたわけです。「起きて歩け」とは彼らは決して言いませんし、言えませんでした。実際の治癒の方が難しいからです。

イエスは、より難しい治癒行為を実施しました。それは因果律という考え方に終止符を打ち、自立した個人が尊重し合う共同体を創るためです。JK