神は我々と共におられる 2016年12月24日 イブ礼拝説教
わたしたち家族は1999年8月から2002年の春まで米国ジョージア州アトランタ市に住んでいました。私と妻の留学目的での滞在でした。留学というものはそんなに格好の良いものではありません。ただ色々な意味で貧しくなるだけのことです。「外国人になる」ということは愚かで馬鹿にされる存在になります。連盟からいただく年間70万円ほどの奨学金と、いくつかのアルバイトだけで一家四人が暮らすのですから、無謀でさえある生活です。ただしほエリー宣教師が紹介してくれたタッカー第一バプテスト教会が、住居と自動車を無償で貸して下さり、水光熱電話代もすべて無料という破格の親切をしてくださったおかげで生活がなんとかなっていたのでした。なお学費もホエリー宣教師が立ててくれた奨学金のおかげで無償でした。
最初のクリスマス、当時3歳の娘と1歳の息子に贈るプレゼントは、二人の欲しがっていたおもちゃでしたが、そんなに高価でも見栄えの派手なものでもありませんでした。クリスマス商戦を尻目に、親として少し気後れをしていたのは事実です。サンタさんからは別にプレゼントがあったとしても。
クリスマスよりも数日前に、リードさんという男性が我が家を訪ねてくれました。わたしたちの世話をするタッカー第一教会の執事さんでした。「Ho, ho, ho」と言いながら、「サンタが来たぞ」と大きな袋にいっぱい入ったおもちゃ数十個を子どもたちの前に広げたのでした。教会員から贈り物だと言うのです。恐縮するわたしは、「こんなに貰ってしまって、一体何をお返しすれば良いのか分からない」と申し上げると、リードさんは「日本に帰ったら同じことを他人にしてやってくれさえすれば良い」と笑って帰って行きました。
わたしは今でもその光景を忘れられず、この季節になると思い出します。リードさんの表情もですが、高齢化が進んでいた教会のおじいさん・おばあさんたちが、大きなショッピングモールを大きな買い物カートを押しながら、日本から来た留学生の子どもたちのためにおもちゃを見繕っている姿が、目に浮かぶのです。もちろんその時貰った贈り物はほとんどすべて手元にありません。しかし、タッカー第一バプテスト教会の方々の愛は心にいつまでも残っています。この意味でわたしと常に共にあの方々はいらっしゃいます。
贈り物にはそのような意味があるのではないかと思います。物ですから壊れるかもしれないし、失くなるかもしれません。目に見える状態で維持できないかもしれません。しかし、贈り物をもらったという事実は決して消えないのです。贈り物は、贈った人と贈られた人の連帯感を強めるものです。その物を見る度に、または、その季節が来る度に心の中にその人が蘇ります。「共に居るという感覚を持つ」とでも言いましょうか。
クリスマスは、神が独り子イエスをこの世界に贈った出来事です。少なくともキリスト者はそのように信じています。神の側の意図は、「神はこの世界と常に共に居る」ということを分かりやすく解き明かすことにあります。
赤ん坊の姿で生まれたイエスは30数年の生涯を十字架で閉じます。そして三日目によみがえらされて、その後天に昇り、いなくなります。この数十年間だけ神が贈り物として人間となりました。今は見えません。しかし、イエスが地上で行った愛と正義は、ずっと心に残りました。敵を愛する愛と正義、罪人を赦す愛と正義です。聖書という本にも残りました。こうして私たちはイエスを思い出す度に、神は我々と共に居られることを実感できます。
クリスマスは神と人の連帯感が強くなる日です。だから共に神の子の誕生を祝い、神を賛美いたしましょう。