今週から日曜日の講解説教の箇所が出エジプト記になりました。新約聖書と旧約聖書をほぼ同程度ずつ礼拝説教で取り上げていく予定です。キリスト教会は意識して旧約聖書を取り上げないと、聖書の四分の三を実質的には失ってしまうことになりかねないからです。
さて、「旧約聖書不要論」はキリスト教の歴史の中で常に浮上してきました。古くは「マルキオン主義」と呼ばれるもの(2世紀)、新しいところではナチス・ドイツによる「ドイツ的キリスト者」運動です(20世紀)。根底にはユダヤ人差別があります。
そもそも初代教会は最初の数十年間旧約聖書しか用いていませんでした。「新約聖書不要論」だったのです。旧約は要らないという主張は、ヘブライ人/イスラエル人/ユダヤ人の歴史を無視し貶めようという意図をもった歴史修正です。イエスがユダヤ人の王として生まれ、また殺されたのにもかかわらず。
キリスト教はユダヤ教を「古いもの」「乗り越えられたもの」「律法主義」「民族主義的な教え」としてのみ見なしてきました。そのような前提に立ったキリスト教神学は差別的にしか機能しません。ユダヤ教徒の用いる正典部分を「旧」約聖書と呼び、イエス・キリストに関係しそうなところだけを用いて解釈するので(パウロの手紙やマタイ福音書に著しい)、興味の無い箇所を取り上げもしないし書かれている内容そのものに肉薄できないという弱点を内包してしまうのです。
確かにナザレのイエスによって刷新され乗り越えられたことがらはあります。しかし、キリスト者となっても同じような「古い罪の体質」「乗り越えられたはずの課題」「他人を裁くために正典を悪用すること」「クリスチャン優越主義」を持つことがありえます。ユダヤ教徒だけの問題ではなく、「信仰を持つ者全般」「人類一般」にあてはまる倒錯が依然としてあるのです。
だからユダヤ教徒(・イスラム教徒)に対しては、「(共通する正典をいただく)経典の民」としての仲間意識が必要です。そして「旧約聖書」に対しては、「第一の契約の書」としての敬意と、新約聖書に対するのと変わらぬ「正典」信仰とを持つことが大切です。どちらの正典にも、同じように現代の諸課題をぶつけて対話をしていくのです。その時みことばが豊かにわたしたちを導くことでしょう。JK