マタイ4:1-11(新約4ページ)
今日は「悪魔からの誘惑」と呼ばれる箇所です。一見してお分かりのように、神話的な物語です。神話というものは、神々を登場人物として人間世界に起こりうる出来事を物語るという文学です。聖書は古代の書物ですので、このような神話的な物語も収められています。では、ここで「悪魔」を登場させて何が言いたかったのかを考えていきましょう。
悪魔というものが存在するとしたら唯一神教という教理に抵触しえます。神以外の神的存在(天使も含む)は、多神教とどこが異なるのでしょうか。特に、善の神と拮抗しうる悪の神=悪魔がいるとすれば、唯一神教ではなく二元論的な神々を信じることになりえます。神が悪魔を放置することは、神が善だという建前も危うくします。悪魔を実在するものとして捉えることはお勧めしません。
聖書は悪魔の性質を「誘惑する者」として描いています。アダムとエバの物語からもその特徴が読み取れます。そうだとすれば、古代人としては悪魔からの誘惑としか表現できない人間の弱さがここで言われています。それを「罪」とも言います。いわゆる「魔が差した」ということがらです。どんなにいい人にも、どんなに普通に過ごしている人でも、良心の規範を乗り越えて悪事に手を染めてしまうことがありえます。その弱さを悪魔からの誘惑と言っています。
だから歴史の事実としては、イエスはヨハネの教団を飛び出した後、相当期間(「四十日間」は象徴的な数字)一人きりになって、そこで自らの弱さと向き合い、その過程の中で自分の神信仰を吟味したということでしょう。ゴータマ・シッダールタが覚者(ブッダ)になる過程と似たような出来事が起こったということを、「悪魔からの誘惑=罪に打ち克つ神の子の物語」は示しています。
そういうわけですから、この神話的な物語は人間の弱さ=罪を三つの具体例を示して説明しているわけです。悪魔の発言は心にうごめく魔が差す瞬間の例えです。第一に「石をパンに変えよ」という言葉です。これは狭い意味で言えば食欲のことです。しかし人間は食べなければいのちを維持できないのですから、食欲は何らの悪いことではありません。拒食症の方の苦労を考えると食欲が悪いとは言えません。
ここには解釈が必要です。わたしは、石をパンにするほどまでに貪ることの問題であると読みます。ここにはパンを独り占めにする「北」の問題があります。2割の北の住人が8割の食事を独占し、8割の南の人が飢えています。だから、経済的支配欲という罪の問題と言い換えられます。アベノミクスだけで良いのかという問いです。
イエスの反論は、「人はパンだけで生きるのではない。神の言葉で生きる。」というものでした。聖書は、「人間は分をわきまえて生きよ」と語り、「隣人を愛せ・隣人の家を貪るな」と語ります。アイヌの知恵である「知足」(足ることを知る)が必要です。
二番目の悪魔の言葉は「神殿の屋根から飛び降りよ」というものでした。あえて神殿という場所なのですから、宗教が関わる問題と気づきます。一言で言えば、自分を神とすること・自己絶対化という誘惑です。現代の言葉で言えば、自分の能力に頼りすぎることです。悪い意味で「神なしに生きる」傲慢さとでも言えます。自分が神になってはいけないということです。
その一方で、悪魔の誘惑は「祈願を聞いてくれる神は本物の神だから、いろいろな神々を試してみてはどうか」という内容も含みます。これは「自動販売機の神」を信じたくなる人間の弱さを指摘しています。これを専門用語で「悪しき宗教性」と呼びます。良い意味で「神なしに生きる」成熟性が求められています。
イエスの反論は、「神を試してはならない」というものでした。信仰というものは自分を上(=神)にして神を下に見ることではありません。
最後の三番目の悪魔の言葉は「自分を拝め。そうすれば全世界を与えよう」というものでした。文字通り「悪魔に魂を売り渡す行為」です。このことを「偶像崇拝」と言うのでしょう。狭い意味で偶像崇拝を、別の宗教の神像を拝む行為と解する場合がありますが、広い意味では罪に身をゆだねる行為と言えます。「良心の声」を無視する生き方です。
おそらく国家権力を委ねられている人々はこの誘惑に毎日直面していると思います。権力闘争のみに明け暮れることは悪魔を拝む行為に似ています。また与えられた力を濫用することもそうです。だから、政治的支配欲が罪の一面であることがここで示されています。
イエスの反論は、「ただ主を拝み、主にのみ仕えよ」というものでした。神への礼拝は政治的支配欲・権勢欲に打ち克つ生き方を身に着けさせます。崇めるべき絶対的な何かを持つことで、すべての人は平たくなるし、すべての出来事は過剰に大きくも小さくもならずにそのままの姿で見えるからです。
以上申し上げたような意味において、みなさんにも「悪魔からの誘惑」はあるのではないでしょうか。