「今日ダビデの町にあなたがたのために救い主がお生まれになった。」 ルカによる福音書2章11節
今日の聖書は12月の暗唱聖句です。
クリスマスページェントの練習がたけなわです。各クラスそれぞれに合わせた難易度の劇を楽しく真剣に練習しています。先ほどの暗唱聖句は劇の中のセリフとしても登場します。羊飼いは天使たちに「とある赤ん坊の誕生」を告げられ、そのことがおめでたいことであると言われます。一体何がどのようにめでたいのか、少し考えてみましょう。
神話的な言い方ですが、キリスト教信仰においてはイエスを神の子と観念します。天において、神と神の子は仲良く過ごしていたというのです。しかし、神は世界を見て、問題を感じたというのです。人々の争いや世界の破壊行為がとどまらないからです。そこで、神は神の子を赤ん坊として世界に生まれさせたというのです。これが解決策であるという考えがここにあります。解決策のことを「救い」と表現します。
この神話に乗っかって言うならば、クリスマスは「神の育児放棄」です。親権者である責任(養育の義務)を放棄して、ヨセフとマリアや、その他のページェント登場人物に神の子の養育を丸投げしているからです。さらに言えば、世界全体が神の子の養育を任されたということでもあります。もしイエスが神の子であるならば、そのように捉えることも可能でしょう。
養育・世話をする者が、世話される者によって救われるとはどういうことなのでしょうか。ここには逆転の発想が必要です。赤ん坊を見ると、「愛でたい」と感じるものです。子どもも大人も、街で赤ん坊に出会うと、何となく笑えるものです。自分の子どもだけではなく、どんな赤ん坊にもそう感じます。この事態が、目出度いのです。自分より小さな存在に対して可愛い、愛でたいと感じることが、その人の救いです。全ての人がその感情を持ち、その意思を持ち、その行為を行うならば、世界は救われるのです。そのような愛を毎年教えるという意味でクリスマスは実に目出度い行事です。すべての赤ん坊がイエス・キリストのそっくりさん、神の子らであることを覚えたいものです。
赤ん坊は授かりものです。間違いなくそうです。ただしもう一つの考え方もありうるでしょう。赤ん坊は預かりものでもあります。実子であれ養子であれ、あてはまることだと思います。神が、「この保護者にこの子」と指名して、預けたいのちであるという神話的な言い方もクリスマスには許されます。
「神の育児放棄」ということは、裏を返せば「神の私たちに対する信頼と養育の委託」とも言えます。たとえば、保護者の方が毎日大事なお子さんを幼稚園に預けることは、別に育児を放棄しているのではなく、幼稚園という教育機関を信頼して委託しているということでしょう。広げて考えるならば、子どもたちはこの世界全体に預けられた大切な神の子らなのです。自分の子どもだけが神の子ではないということです。各人の幸せを考えながら共に神の子らを育てていきましょう。その時わたしたちは救われるのです。