2月18日の聖書のいづみではマタイによる福音書5:38-42を学びました。有名な「あなたの敵を愛せ」というイエスの言葉です。
旧約聖書のレビ記19:18に「あなたは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という法文があります(P)。イエス当時のユダヤ人社会においては、この法文は「ユダヤ人同胞のみを愛せ=敵ならば憎んでも良い」というように反対解釈されていました。イエスはその常識に挑戦します。その際のヒントは申命記22:1-4(D)と、出エジプト記23:4-5(E)との関係です。前者には同胞の家畜の保護が規定され、後者には敵の家畜の保護が規定されています。EはDの規定の適用範囲を広げています。
同じようにイエスは隣人への愛を敵への愛へと広げています。拡大解釈です。この拡大解釈は、「あなたの隣人とは誰か」という隣人の定義に関わります。身内・同胞のみに隣人を限定することに対する強烈な批判として、「敵」「迫害する者」が用いられています。
ルカによる福音書10:25-37(倒れているユダヤ人を助けたサマリア人の譬え話)は、この主題に真正面から答えるレビ記19:18の解釈です。イエスは隣人の定義についての質問に対して、「あなたが隣人になりなさい」と切り返しています。イエスにおいて隣人と敵を分かつ線引きが無意味化していることが分かります。この路線で解釈をするならば、「敵を愛せ」という命令は「すべての人を愛せ」という命令とほぼ同じ意味内容ということになります。
だからこそ敵を愛する行為の根拠は寛容な神のあり方となるわけです(45節)。善人の上にも悪人の上にも太陽を昇らせ雨を降らせる神は、すべての人を愛する創造主です。寛容という憐れみ深さが(ルカ6:36)、愛の対象を際限なく広げる神の完全性を示しています(48節)。
ただしかし、この類の普遍的な教えは薄っぺらく聞こえたりもします。先述の譬え話は、もっと狭く深く人々の心をえぐる衝撃を持っています。当時サマリア人をユダヤ人が日常的に差別していたからです。サマリア人にとってユダヤ人は敵であり日々迫害する者なのです。この譬え話は敵を愛する行為の具体例です。「敵を愛せ」については個別具体的に考え、一律に適用しない慎重さも必要です。JK