2月24日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書10章5-15節を学びました。イエスが十二弟子を宣教の旅に派遣する際の演説が記されています。この記事は、マルコ福音書6章7-13節を基にしつつ(ルカ9章1-6節も並行記事)、それと「もう一つの伝承」とを組み合わせて編集したものです。「もう一つの伝承」は、ルカ福音書10章1-12節にも保存されています。
比べて読むとマタイの強調点が浮かび上がってきます。
一つはユダヤ民族主義です。マタイのイエスだけが、「異邦人(非ユダヤ人)の道に行くな/サマリア人の町に入るな」と語ります。マタイはすでに山上の説教においても異邦人蔑視の姿勢を示していました(5章47節)。歴史上のイエスは、ここまでの民族主義を持っていなかったと推測されます(マルコ7章24-30節、ルカ10章25-37節、ヨハネ4章)。今日の状況を見ても、信仰を持つ者は民族主義に距離をとることが求められています。
二つ目に、「イエスが弟子たちを二人組にして派遣しないこと」です。「十二人」という群れで行動したか、それとも、個人ばらばらに行動したか、二つの可能性があります。おそらく後者でしょう。大勢で押しかけるのは相手方に迷惑だからです(11節参照)。「個々ばらばら」をわたしたちに当てはめると、礼拝する者は自分だけが持つ日常生活に派遣されているということでしょう。
どのような使命を持ってわたしたちは日常へと派遣されているのでしょうか。三つ目のマタイの強調点は、「病人のいやしという仕事」です(8節)。8-9章でイエス自身が行った「死者を生き返らせ」ること(9章18-26節)、「重い皮膚病を患っている人を清く」すること(8章1-4節)、「悪霊を追い払」うことを(8章28-34節・9章32-34節)、十二人も行うように求められています。
死んだようにがっかりしている人や、多くの人々に排除されて悲しんでいる人、社会構造の中で貶められている人は、わたしたちの身の回りにもいます。それらの人々はいやしを必要としています。その人たちの隣人となって、「天の国は近づいた」と語りかけ(7節)、「あなたに平和があるように」と祝福を祈ることが(12節)、いやしという仕事です。これがキリストの道を伝える伝道です。
興味深いことに、布教・伝道された側には、信仰を受け入れない自由があることも明記されています(14節)。思想信条の自由は、特定の宗教を信じない自由も含みます。洗脳まがいの押し付けがましい言い方には辟易します。謙虚に個人の生き方で道を伝えることが大切です。JK