2/27今週の一言

2月27日の祈り会ではエゼキエル書3章16-21節を学びました。

書物としての旧約聖書はどのようにして編纂され形づくられたのでしょうか。バビロン捕囚前までにどのような文書が著されていたのか、おさらいをいたします。まずは紀元前8世紀の預言者たちの言葉です。アモス・ホセア・イザヤ(前半)・ミカの四人。そして申命記的歴史書が前7世紀にできています。申命記・ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記のほとんどです。さらに前7-6世紀の預言者たち、ゼファニヤ・ナホム・ハバクク・オバデヤ・エレミヤです。

これらの預言者たちの言葉は「真正の預言」と権威づけられました。多くが神の裁きとしての捕囚・敗戦を警告し、その通りに歴史が展開したからです。この歴史認識に基づいて列王記の末尾が整えられました。エゼキエルもその系譜を継ぎ、自身の「見張り」としての役割を自覚しています(17節)。

捕囚民たちはさらなる「神の言葉」の必要を感じていました。神殿がなくても神を礼拝する術は、礼拝の中で朗読される神の言葉を中心に置くことです。絶望の民に希望を与える正典が必要です。そこで構想されたのが、「モーセ五書」の編纂です。すでにある申命記を末尾に置き、天地創造から始まり約束の地に入る直前で終わる物語。それは約束の地への帰還を望む捕囚民の希望の書となるでしょう。エゼキエルはその編纂に責任を負っていた人物です。

「お前は必ず死ぬ」(18節)という文は、創世記2:17「(お前は)必ず死んでしまう」という言葉と全く同じです。前者は預言者(「人の子」17節)からの悪人への警告、後者は神からのアダム(「人」の意)への警告という文脈です。そしてこの文はモーセ五書の法律部分にもしばしば登場するのです(レビ20:9他)。

アダムとエバは約束破りにもかかわらず実際には死にませんでした。これは死んだような生き方への批判なのです。20節も「正しい生き方」を離れることが死んだような生き方であると読むべきでしょう。エゼキエルの示す正しい生き方は、誰の死をも喜ばないいのちの神へ立ち帰り、神と向き合い、希望を失わないで生きることです(18:32)。毎週の礼拝で読まれる「神の言葉」は、絶望の中にいる民のために与えられた希望の光なのです。(JK)