2月10日の「聖書のいづみ」では、マタイによる福音書9章35-38節を学びました。
マタイ9章35節は、同4章23節の繰り返しです。これを「まとめの句」と呼びます。今までの話題をまとめて、次の展開を用意するための文章です。同8-9章は癒しの物語集でした。そして、これから弟子たちを選んで派遣する物語(10章)に向かうわけです。
マタイ9章36節は、同14章14節とよく似ています。14章の元になったのはマルコ6章30-44節(特に34節参照)の「五千人の給食物語」です。マタイは、群衆を見るイエスの優しい眼差しを、二回も繰り返します。「群衆が…弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。この憐れみは、「腸がちぎれるほどの思い」です(岩波訳参照)。イエスの愛は共感であり共苦です。マタイは神の愛を何回も伝えたかったのでしょう。
マタイ9章37-38節は、ルカ福音書にだけ並行箇所があります(ルカ10章2節。なお外典のトマス福音書73も)。マルコに無くルカとマタイにある物語は、両福音書が参考にした共通の伝承に由来します。元々文脈のないイエスの語録集の一部を、両福音書記者は自分たちの判断で現在の文脈に配置しています。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」というイエスの発言は、もともと豊作の年に農民に寄せた言葉だったかもしれません(マルコ4章26-29節参照)。イエスが農業に詳しいことは、豊富な譬え話からも知られています。
現在のマタイの文脈では、困窮したおびただしい群衆が「収穫」にたとえられています。「収穫の主」は、いのちの創造主である神です。そして「収穫」を養い、世話と支援をする人々が、「働き手」にたとえられています。8-9章でイエス自身が行った癒し・悪霊祓いが、困窮している人々に対する奉仕の実例です。共感・共苦の精神に根ざして、人に仕えることが求められます。「働き手」は「収穫」を支配することが許されません。「収穫」は「収穫の主」のものだからです。
人に仕える務め(支援職)は常に慢性的な人手不足に陥っています。事柄の性質上、どうしてもそうなることでしょう。一人の人を世話するためには、何人もの支援が必要だからです。教会は信者を増やす活動のために人手不足を感じる必要はありません。むしろ人に仕える時に慢性的な人手不足となることを覚悟すべきです。JK