マタイ4:18-22(新約5ページ)
先月はガリラヤという場所の重要性を申し上げました。ではイエスはガリラヤで具体的にどのような活動をしたのでしょうか。今日の箇所は、イエスのネットワークづくりが記されています。イエスの活動とは弟子と呼ばれる仲間を増やすことにありました。そして、増やすだけではなく、その弟子たちと群れをなして旅をすることにありました。厳密には定住して宿を提供した弟子たちも居ましたが、今日の箇所は共に旅をする仲間たちの物語です。このイエスと共なる旅こそ、人間を解放することであると、聖書は語ります。
ではこの活動の詳細を見てみましょう。ふた組の兄弟が登場していますので、それぞれに場合分けをして説明していきます。
まずはペトロとアンデレ兄弟の場合です。この二人は二人だけで漁をしています。比較的貧しい漁師です。まさにガリラヤ湖で網を打っている最中に、イエスに呼びかけられます。大変な距離です。岸から沖の方に呼びかけたのでしょう。「わたしについて来なさい。わたしがあなたたちを人間の漁師とする」。「わたしについて来なさい/従いなさい」という言葉は、「わたしの後ろを歩きなさい」という意味合いです。いづみっこが隊列を組んで歩くのと同じです。当然、前の人を真似するという意味合いが含まれます。
「人間をとる漁師」という言葉の直訳は「人間の漁師」です。ここには二つの意味が込められています。「人間のための漁師」=「人間をとる漁師」=「信頼のネットワークを広げる人」という意味が一つ目。イエスの真似をするならば、ペトロもアンデレも同じように仕事中の人に呼びかけることが求められます。第二の意味は、「人間に属する漁師」=「きわめて人間らしい生き方をしている漁師」=「信頼に足りる人物」というものです。
まとめると、「わたしの後ろに隊列を組んで歩くなら、あなたたちもきわめて人間らしい生き方をまっとうできる。だから、隊列をどんどん増やす旅に出よう。今の仕事を止めよう」という呼びかけです。二人は、すぐに網(職)を捨てました。華麗なる転身です。
次に、ヤコブとヨハネ兄弟の場合です。この二人はペトロ・アンデレと異なり父親と一緒にいます。ここからより若年であったことが推測されています。また、父ゼベダイは「雇い人」を雇うことができる「網元」だったようです。比較的豊かな漁師です。ヤコブとヨハネも舟の中で網を修繕している労働中にイエスに呼びかけられます。おそらく近くまで寄っていっての言葉でしょう。そして後ろにはペトロとアンデレがついてきているという状況での声掛けです。
「呼んだ」という言葉、英語でcallと訳されています。彼らの名前を呼んだという意味と、彼らに使命を与えたという意味が込められています。ペトロとアンデレは彼らの名前をイエスに教えることができたでしょう。名前呼びは、人格尊重の第一歩です。誰もが個人として大切にされるべきなのです。父ゼベダイの影に隠れ、「父の家」の保護の下にあった二人は名前を呼ばれ、自分が特別な存在であることを示されました。そして、新たな使命へと召し出されるのです。
彼らもまたすぐに舟と父親を捨てて従いました。『新共同訳聖書』は「残して」(22節)と訳しますが、原文では20節「捨てる」と同じ言葉ですから、この同じ文脈では同じように訳すべきでしょう。ここでは家制度からの脱出が強い口調で語られているのです。ですから「捨てる」よりも「棄てる」の方が良いかもしれません。
より富んでいるぼんぼんのヤコブ・ヨハネの方が棄てるものが大きいことに気づかされます。彼らは失業と同時に、父親から勘当されているからです。
さて、この人たちにとってイエスに従うことはどのような意味で魅力的だったのでしょうか。言い換えれば、この人たちが体験した解放とは何だったのでしょうか。わたしたちにもそれが体験できるのでしょうか。
わたしは「人は群れで生きる」ものであると思います。確かに個別に特別な人間です。それぞれに大切に扱われるべきです。しかし、それは独りよがりに生きるということではありません。肩を組む仲間と一緒に信頼関係に基づいて生きること、それが人間の解放なのです。自分らしく生きることは、隣人と共にいなければできないという逆説が大切です。手をつなぐためには、その固く握り締めた手(自我)を開かなくてはいけません。
そして何かを手に入れるためには、今手の中にあるものを離さなくてはいけません。何かを捨てなければ新しい何かを得られないということもあります。時間と体力は限られています。優先順位をつけて選ばなくてはできない日常です。網や舟や父親にあたる、なにか重要なものですら棄てる/相対化する必要があります。親離れ/子離れもこの議論には含まれるでしょう。
選びの際に重要なのは自分の心・意思です。すべての人は自由な心を持っています。良心と言います。わたしはキリスト者なので、自分の良心の主はイエス・キリストです。特定の思想信条が無くても、全ての人には自由な良心があります。結局その良心の声に従うことが大切です。何を第一にし、何を第二・第三にするのか、自分の心を最優先させること、それと同時に隣人の良心を大切にして群れとなって生きること、信頼のネットワークの中には、そのような人間解放があります。幼稚園も教会もそのような集団であってほしいです。