11/29の「聖書のいづみ」は、サムエル記上3章10-14節を学びました。有名な絵画にも描かれた少年サムエルが神の声を聞くという場面です(10節)。ただし、あの神々しくも美しい絵からは到底想像できない過酷な内容を、ヤハウェはサムエルに告げました。それはサムエルの師匠である祭司エリの一族が、神の裁きによって没落するという預言です(11-14節)。
ヤハウェは裁きの理由を、息子たちに対するエリの管理監督責任とします。息子たちが自分自身のために神に対する供え物を横領していることを、エリが知っていたという罪です。なお、新共同訳聖書は「神を冒涜している(軽んじている)」としていますが、これはギリシャ語訳本文を採っています。ヘブライ語本文は「彼らのために軽んじている」です。わずか一文字付け加えるだけで、意味が変わってしまう、面白い例です。
ここで二回使われている「罪」という言葉はアヴォンというヘブライ語名詞の訳です。ヘブライ語にはいくつか「罪」と訳される名詞があります。ギリシャ語のように抽象的な「罪概念」よりも、具体的な状況に即した「罪行為」がヘブライ語話者にとって問題になります。数ある「罪」の中でアヴォンの意味範囲は、「罪/不正/罰」です。罪が同時に罰でもありうるというところに、大きな特徴と深い意義があります。
悪い行為をし続けることは、それ自体が曲がった生き方を強制されているので、刑罰に服しているとも言えます。罪行為は罰の一形態です。神はエリの不作為の罪を、彼がもやもや感を持ち続けるということで罰しています。エリは神の裁きの只中にいるのです。ちなみに13節の「裁く」という動詞には、現在進行形が使われています。
サムエルはこの神の言葉を聞いた時から、ヤハウェと親しい交わりを持つ預言者となりました。ヤハウェがサムエルの傍に立ち尽くす行為は、預言者モーセの前に現れて立つ神の姿と重なります(出エジプト記34章5節)。イスラエル宗教史の中で、最高の男性宗教家は預言者モーセであり、二番目は預言者エリヤでしょう。もしも三番目を挙げるとすれば、それは預言者サムエルです。サムエルがモーセに匹敵する人物として、サムエル記の著者によって描かれていることが分かります。
しかし預言者の務めは時に過酷です。未成年であろうと神の言葉を預かり、それをそのまま他人に伝えなくてはいけません。夜中に三度も起こされて、この厳しい言葉の伝言を命じられるとは。サムエルに同情します。 JK