5月17日の「聖書のいづみ」は出エジプト記34章27-28節を学びました。神と民とのシナイ契約再締結の締めくくりの場面です。シナイ契約は十戒を冒頭に掲げた「契約の書」と共に締結されました(20-24章)。しかし、民の神への背反である「金の子牛事件」(32章)をきっかけに、神が記した十戒の石板がモーセによって破壊され(32章15-19節)、一旦契約は破棄されました。32章30節以下の、モーセによる神と民との関係修復によって、シナイ契約をやり直すことになり、もう一度十戒の石板を作り直す運びとなったのでした(34章1節)。
モーセはこのシナイ契約再締結のために四十日四十夜飲まず食わずで神と語り合ったようです(34章28節)。その実務は、「祭儀的十戒」と呼ばれる言葉を聞くことであり(34章10-26節)、「十の言葉」を石板に書くことでした(27-28節)。
新共同訳聖書「これらの言葉を書き記しなさい」の直訳は、「あなたはこれらの言葉を、あなたのために/あなた自身で書きなさい」です。この命令の内容は、以前の石板が神によって作られ、文字が神によって書かれたことと比べられます(32章16節)。以前と異なりモーセに書くことが命じられています。遡って、石の板の切り出しもモーセに命じられていたのでした(34章1節)。
ここには契約の再締結にあたって、「教育者」である神のこらした工夫が見えます。ただ単に与えられた言葉は、その内容がどんなに良くても、大切に扱われない可能性が高いものです。民が契約について自分のこととして自覚しなくては、契約は守られません。神の批判は、民の背反にも向けられていますが、石板を勝手に壊した民の代表者であるモーセにも向けられているようにも思えます。だから、民を代表してモーセは石板を作り直し、「十の言葉」を自分の手で書かなくてはなりません。この手作りの作業を通じて、モーセを初めとするイスラエルの民は、契約の主体となっていきます。
ギリシャ語訳聖書とサマリア五書は、「主と共に」(28節)を、「主の前に」としています。こちらの本文が元来のものであり、ヘブライ語本文は27節との関係で「主と共に」と修正した可能性があります。両本文の併存は、信仰にとって示唆に富みます。特にペンテコステ以降の三位一体の神を信じるキリスト教信仰は、神と人の関係を複合的に見ることに特長があるからです。聖霊の導きによって「イエスが主である」との告白に導かれた者たちは、新しい契約関係に入りました。それは、神と誠実に向き合い神の前に立ち、神の子キリストと肩を並べて共に歩み、聖霊を自らの内に宿して生きるという人生です。JK