5月24日の「聖書のいづみ」は出エジプト記34章29-35節を学びました。
この箇所はモーセが特異な人物であることを記しています。彼は、神と直接面と向かって語り合うことができる唯一の人物です。「神を見ると死ぬ」と信じられていた時代のことですから、特異性は際立ちます(創世記32章31節)。
モーセが特別な存在であることを示す一つの逸話は、神と会った後に彼の顔が輝くという現象です(29・30・35節)。ある意味で彼の顔は「主の栄光」を映していたのでしょう。「栄光」は、神がそこに居るということを指す婉曲表現ですから。神と出会ったので神を反射したということです。
イエスがモーセとエリヤと出会った時に光り輝く姿に変貌したという出来事は、この故事と同じように、神と面と向かった三人が神の栄光を映して輝いたということを意味します(ルカ福音書9章28-36節)。イエスは「第二のモーセ」「契約の仲介者」なのです。
イスラエルの息子たちはモーセの顔を恐れます(30節)。それは神を見ると死ぬという恐怖からのものでしょう。そこでモーセは親切心から自分の顔に覆いをかけることにしました(33-34節)。顔に覆いをかける指導者は、祭司も含めてイスラエルの歴史の中に誰一人いません。
使徒パウロはこの故事について独自の解釈を施しています(Ⅱコリント3章12-18節)。文字に書かれた律法を大切にすることは、神と面と向かって対面せずに、顔覆いを間に挟んで対面しているようだと言うのです。すなわち、霊である神に向き直ることの阻害要因として「顔覆い」が位置づけられています。
パウロの解釈は、モーセに言わせれば「ひどい誤解」でしょうけれども、聖書信仰の一つの真理をついています。すなわち、「文字は殺しますが、霊は生かします」(同6節)という真理です。正典であれ、神殿であれ、祭司であれ、王朝であれ、神との交わりを間接的なものにする要素は、信仰にとってはマイナス要因となりえます。神は霊であるからです。
神と民を仲介する特別な代表であるモーセの存在が、正にそれゆえに民と神との関係を間接的にしてしまうのです。アロンのような祭司も、共同体の代表者たちも、間接性を後押しする存在になりえます(31節)。
神の子イエスはわたしたちと神の仲介者ですが、神によみがえらされ、霊の体となりました。神から派遣され、イエスからも派遣された聖霊が、わたしたちに直接授けられ宿っています。わたしたちは「神を宿して生きる」のです。JK