2017/06/14今週の一言

6月14日の「聖書のいづみ」は、サムエル記上1章9-11節を学びました。サムエル記についてはヘブライ語本文とギリシャ語訳とがかなり異なっています。1948年から発掘が始まった「死海写本」(断片群)の中に、ギリシャ語訳と一致するヘブライ語本文が発掘されました。ギリシャ語翻訳者は自由に意訳をしたのではなく、別の系統のヘブライ語本文を逐語的に訳していたのです。11-13節にもギリシャ語訳との一致する断片が発掘されています(学術的略記4QSama)。多様な本文の存在は、多様性を是認する民主社会にとって歓迎すべきことです。いくつかの系列の本文間の相違を比べながら楽しむ聖書の読み方をお薦めいたします。

 毎年のシロの神殿での犠牲祭儀と食事が、子どもを生めないハンナにとって屈辱に満ちたものであったことが1-8節に記されていました。わたしたちの主の晩餐がそのようなものでないようにと願います。

9-11節はその続きです。ハンナは神の前で一人祈ります。「子どもをわたしのために与えるなら、その子どもを神のために与える」という祈りです。ギリシャ語訳は「(酒を)飲むことの後」(9節)を欠きます。おそらく、欠く本文(短形本文)が本来のものです。祭司エリを庇うための修正加筆でしょう。エリは敬虔に祈るハンナを酔っ払っていると勘違いしているからです(13節)。

ハンナの祈りは尋常ならざる必死なものでした。「彼女は主に接して祈った」(10節直訳)。この表現は旧約聖書中、この箇所のみ登場します。それだからギリシャ語訳等も「主に向かって」と修正しています。ハンナは完全に神の懐に飛び込んで、両者間の距離をゼロにして、泣きじゃくりながら訴えたのです。この「全存在の苦味(マラ)」(10節)は、ナオミの嘆きに通じます(ルツ記1章20節)。

上述のギリシャ語訳は11節の末尾の部分の直前に、「あなたの顔の前に贈り物として彼の死の日まで。そして彼は葡萄酒も強い酒も飲みません。」という文があります(長形本文)。そして上述4QSamaも、この長形本文を支持しています。長形本文は、この後ハンナから生まれることになるサムエルが、「ナジル人」であることを明記しています(ナジル人については民数記6章参照)。長形本文は士師記13章にあるサムソンの誕生物語との関連性を強めています。サムソンの母親もなかなか子どもを授かれなかったのでした。

女性の産む/産まない自由や、産みたいけれども様々な理由で産めない女性の事情などを考えると、この物語自体のジェンダー視点を欠く「デッサンの狂い」は気になります。一方、様々な本文は正典を一体化させる効果を持っています。JK