6月21日の「聖書のいづみ」は、サムエル記上1章12-18節を学びました。ハンナの祈りに引き続く、祭司エリとハンナの対話です。
粗筋は次のとおりです。「ヤハウェ(主)の家」と称される神殿で、ハンナが言葉に出さずに口だけを動かして祈っていたところ、その様子をじっと見ていたエリが咎めます。彼女が酔っていると勘違いしたからです。当時、祈りは口から言葉を発してなされることが普通だったようです。また、女性が神殿に入ることは禁じられていた可能性もあります。
ハンナは弁明し「酔ってなどはおらず、苦境の中でヤハウェの前に祈っていただけだ」と告げます。エリは納得し、細かい事情について根掘り葉掘り尋ねず、「平和に行け。願いがかなうように」とだけ語りかけます。祭司の仕事は、お参りに来た信徒を最後に「平和に行け」と送り出すことだったからです。そして、この言葉に力を受けたハンナの帰り道の顔が変わったというのです。
ギリシャ語訳と死海写本4QSamaは、13節冒頭の「そしてハンナは」を欠く短形本文です。ヘブライ語底本は、「ハンナ(恵みの意)」を付け加えて強調しています。ハンナと神の恵みに注目することが読者に求められています。
ギリシャ語訳長形本文は、14節のエリの発言を「エリの下僕」の発言とし、末尾に「ここから出て行け」という命令も付け加えています。祭司エリを庇う修正でしょうけれども、逆にハンナの勇気ある行為を賞賛もしています。
この文脈ではハンナは、祈ることを「心に接して語る(ダバル)」(13・16節)と表現し、「ヤハウェの前で全存在(ネフェシュ)を注ぐ」(15節)行為とみなしています。ここに祈りの一つの模範があります。人生の窮状に自分の心の思いを普段の言葉で語ることが、霊である神の前に全存在をさらけ出し注ぎ出すことなのです。
祭司の別れ際の言葉が、ハンナの顔を変えました。18節末文の直訳は、「そして彼女の顔は、もはや彼女に属していなかった」です。ギリシャ語訳は、「もはや悲しくなかった」とします。訳しにくかったからでしょう。祭司の祝福は「生きる力」を賦与します。祝福は、神の面前に立つ信徒ひとりひとりの顔を、神に属するものへと変換させることです。
バプテスト教会は「万人祭司」を謳い、牧師以外の教会員が礼拝の中で公に祈ることを勧めています。またわたしたちの教会では、牧師の祝祷に代わって、最後に交互に祝福を交わし合います。これらの営みによって、礼拝奉仕の可能性が広がり、各人の顔が神に属するものへ変わっていくことが期待されます。JK