「価値ある余暇としての礼拝」「世での疲れを落とす休憩所としての教会」について考えてみましょう。これを、ひとまず「余暇の神学(Recreation Theology)」とでも呼んでおきます。
「余暇の神学」の聖書的基盤は、天地創造の神が七日目に休んだことと(創世記2章)、七日目の礼拝日を安息日と呼んだことと(出エジプト記20章)、安息日が人のために制定されたということです(マルコ福音書2章)。人は真の休みによって再創造(Re-create)されます。永遠の命を生きることは、再創造の継続更新をすることです。充実した休みなしに、充実した人生は送られません。
現代日本社会の特徴は、長時間労働と多様な余暇の充実にあります。日本社会に住む人は、世界一レベルの睡眠時間の短さを誇っています。拘束時間の長い労働の傍ら、個人向けの趣味や家族向けの楽しい遊興が24時間たくさんあります。重労働と遊びを突き合わせるという仕方で、心身の均衡をとってストレスを解消しているのです。この「休み方」そのものにも疲れの要因が隠れています。
教会は、「礼拝が趣味・遊興と同列である」ということを(少なくとも教会外の人々からそのように思われているということを)、謙虚に認めなくてはいけません。礼拝で疲れが落ちても、その他の遊びで疲れが落ちても、効果は同じなのだから神は喜んでいるでしょう。長時間労働で苦しんでいる人々に共感することが必要です。それは内部の教会員に対しても必要な眼差しです。
礼拝を運営する教会は、教会員に過度の奉仕を負担させるべきではありません。重労働の対価も無いのですから。不当に長い説教をすべきでもありません。上司の長いお説教で苦しむ人々を、牧師が同様に苦しめてはならないからです。労働の要素を礼拝の中に混ぜるのではなく、充実した余暇の要素を世に学び、取り入れる方が良いでしょう。たとえば「家族で参加できる礼拝」もその一つです。
その他の余暇と同列に陳列されている礼拝は、差異を図る必要もあります。それは人々を疲れさせている物事と異なる価値観を示すことです。良い言葉を発し(聖書・讃美歌)、良い言葉を聞くことです(祈り・説教)。職場もテレビも暴力的な言葉に満ちているからです。序列的支配ではなく、誰もが仕えるという倫理が必要です(役員/大人でなくても)。他者を軽侮し「いじる」のではなく、隣人を尊重する。多様性を包摂する寛容な雰囲気が望ましいのです(キリスト者/教会員/人間でなくても)。人々のストレス発散は「刺激対刺激」の突き合わせ対立構造でした。相互に信頼しつつ距離を保って全てを包む、ゆるやかな共存が世の疲れを癒します。(続く)JK