9/6の「聖書のいづみ」は、サムエル記上2章1-3節を学びました。「ハンナの祈り」と呼ばれる詩の前半の三分の一です(全体は、1-10節)。古代パレスチナの文学は、散文よりも詩文が先に発展しました。旧約聖書に収められている諸文学分野の中で、最も古いものは「預言文学」です。預言の文学様式が詩であることは偶然ではありません。「ハンナの祈り」という詩は、物語とは独立して、先に作成されていた可能性が高いものです。詩に触発されて、ハンナとサムエルの物語という散文が付け加わったかもしれません。物語の中核であり、物語を先導しているという意味で、「ハンナの祈り」は重要です。
また、「マリア(ないしはエリサベト)の賛歌」(ルカ福音書1章46-55節)の下敷きになった詩という意味でも、「ハンナの祈り」には独特の価値があります。生まれた子どものサムエルは、イエス(ないしはバプテスマのヨハネ)を指し示す人物です。わたしたちはルカ福音書やクリスマス物語に、重ね合わせて読むことができます。ギリシャ語訳と死海写本(4QSama)は、「彼女は祈った」(1節)という部分を欠きます。確かに「祈り」ではなく「賛美」の方が内容を要約しています。
1-3節は、誰が誰に何を言っている言葉かを意識すると、意味深になります。「わたし」=ハンナは、喜びを大きな声で「わたしの敵どもに接して」語ります(1節)。「わたし」は、神のことを「あなた」と呼ぶことができる者です(2節。1節「御救い」の直訳は「あなたの救い」)。そして、「わたし」は決して孤独ではなく、神を「わたしたちの神」と呼ぶことができます(2節)。ハンナが共に喜び、共通の神に賛美を捧げる仲間たちとは、一体誰なのでしょうか。
新共同訳では主語が省かれていますが、「あなたたちは驕り高ぶるな」(3節)と、原文では「わたし」と対峙する者たちが目の前にいることが分かります。その者たちこそ、「わたしの敵ども」(1節)です。ハンナに傲慢な言葉を投げつけ抑圧している敵どもとは一体誰なのでしょうか。
詩はわたしたちの想像力をかき立て、マリアやエリサベトを慰め励ました人々や、逆に彼女たちを苦しめた人々のことを思い出させます。詩は抽象的なだけに、普遍的な力を持っています。時空を超えて今もわたしたちは、ハンナの仲間/敵について思いを馳せます。
「人の行いが正されずに済むであろうか」(3節末尾)は、ギリシャ語訳と死海写本(4QSama)の保存している「神はその計画を準備している」が元来の本文でしょう。敵味方の対立構造を踏まえながらも、神の計画に希望をおきたいものです。 JK