10/18の「聖書のいづみ」は、サムエル記上2章27-30節を学びました。
サムエル記は著作年代が比較的古い書物と推測されています。その証拠とされるのが、「比較的古い言葉使い」です。たとえば、27節にある「神の人」という表現もその一つです。この言葉は、預言者に対する古い呼称です(9章6-10節参照)。
実際、ここでの「神の人」は後の預言者たちも用いた「使者の定式」を使って、自分が神の言葉を伝言していることを明示しています。「主はこう言われる」(27節)、「イスラエルの神、主の託宣」、「主の託宣」(30節直訳)と繰り返される表現が、使者の定式です(アモス書1章3節他参照)。
預言者は本人に面と向かっては通常の感覚では言いづらいことを直言します。ここに登場する匿名の「神の人」も、祭司エリからすれば聞きたくない言葉を語りました。それを可能にしているのは、「神からの伝言である」という主観です。この主観を「召命」と教会では言い習わしています。
祭司エリは神殿城下町シロの権力者です。おそらく彼の父親もシロの神殿の祭司だったのでしょう。「先祖」(27・28・30節)の直訳は「父の家」です。連綿と続く世襲制度によって、エリも二人の息子も労せずに権力の席に着くことが保障されていました。血統重視と縁故主義が、シロの町に腐敗をもたらしていました。絶対的な権力は絶対的に腐敗するものです。
エリは先週の箇所で息子たちの悪行を諌めていますが(22-26節)、長い間放置していたのだから同罪です。神の人は、「自分たちの私腹を肥やす」(29節)行為として、父子を一刀両断に裁いています。神の面前で生きるという緊張感。凛として良心的に生きるということが見受けられない緩み・たるみ・驕りが問題です。「ばれなければ何をしても良い」という程度の倫理観が問われています。
死海写本とギリシャ語訳から、「わたしの住む所でないがしろにするのか」(29節)ではなく、元来の本文は「わがままな目で見下すのか」であったと推測できます。ここでは、他者の捧げ物を見る目が問題になっています。隣人の浄財のネコババは、隣人を見下す意識からしかできないでしょう。そして最も小さな者を見下すことは、すなわち神を見下すことなのです。
「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者たちは軽んじられる」(30節直訳)。隣人を見る眼差しと、神を仰ぎ見る見方は、軌を一にします。人を尊重する人は、神を尊崇する人です。逆もまた真です。 JK