2018/02/25今週の一言

2/21の聖書のいづみでは、サムエル記上41922節を学びました。エリの死に続く出来事は、エリの息子ピネハスの妻が死ぬという出来事です。しかも、彼女は出産のために死ぬのです。今でも出産は命懸けの出来事ですが、ましてや古代社会のこと、多くの女性たちは出産時に命を落としました。この点で、本日の聖句は、息子ベニヤミンを出産する際にラケルが亡くなった出来事と、さまざまな面で重なり合います(創世記35章)。

 ピネハスの妻は息子を「イ・カボド」と名づけます。神の箱が取り去られた悲劇を嘆いて、「栄光はイスラエルから去った」と言いながらの命名です。「栄光(カボド)」は「神がそこに居る」ということを遠回しに指すための表現です。神の箱の上に設けられたケルビムの上に神が座していると考えられていたことを「栄光」という言葉が示しています。また、「去る(ガラー)」は「捕囚にされる」という意味でよく使われる動詞です。

「イ」には、「ない」もしくは、「どこに」、「ああ」という意味がありえます。いずれにせよ「イ・カボド」は否定的な意味の名前です。ラケルが付けた不吉な名前(ベン・オニ:苦しみの息子の意)は、夫ヤコブによって修正されました(ベニヤミン:真っ直ぐな息子の意)。しかし夫ピネハスがすでに死んでいたということもあり、イ・カボドの名前は修正されないままとなりました。

この不吉な名前は、後に起こるバビロン捕囚という大破局に対する預言となっています。紀元前587年のバビロニア軍によるエルサレム神殿破壊は、そこに安置されていた神の箱の消失でもありました。その時、栄光(カボド)は東の方に移動しています(エゼキエル書112223節)。預言者エゼキエルは神の栄光を捕囚とされた(ガラー)地バビロンで見ます。そして、ユダヤ人のバビロンからの帰還に伴い、栄光も新神殿に戻ってくることを、預言者は希望しています(同43章)。

物語の中でピネハスの妻の関心事は、神の箱の安否に集中しています。舅エリの死や、夫ピネハスの死よりも、神の箱が奪われたことに衝撃を受けています。それは舅エリの究極の関心事でもあり、シロの全住民の関心事でもありました。「民族の神」を押したてた戦争で、別の民族に負けた場合、政教一致した信仰のあり方が揺さぶられます。「万軍の主(ヤハウェ)」はペリシテ人の神よりも弱いのか、神は死んだのか。

果たして栄光はどこにあるのでしょう。敗戦という屈辱的な苦難が逆説的に栄光であることに気づくには、イエスの十字架を待たなくてはなりません。JK