2018/03/14今週の一言

3/14の聖書のいづみでは、サムエル記上51012節を学びました。神の箱をたらい回しにする物語の続きです。

ガトの人々は、自分の町に災厄をもたらした「イスラエルの神の箱」(781011節)を、エクロンという町に送りつけます。エクロンもアシュドドやガトと同じペリシテ人の都市国家の一つです。ガトの領主と、エクロンの領主の間には、この送りつけについての合意がなかったようです。ここに、アシュドドからガトへの神の箱移動と異なる事情があります。前回は、5人の領主による合議がありました(8節)。

エクロンの住民は一斉に反発しました。「イスラエルの神の箱をここに移して、わたしとわたしの民を殺すつもりか」(10節)。この世論を背に、エクロンの領主はペリシテ五都市の領主たち全員を招集します。再び会議が、今度はエクロンの地で行われることとなりました。

エクロンの領主の主張は次のとおりです。「イスラエルの神の箱を送り返そう。元の所に戻ってもらおう。そうすれば、わたしとわたしの民は殺されはしないだろう」(11節)。この主張は通らなかったようです。ペリシテ人たちが、この後すぐに神の箱をイスラエルに送り返していないからです(61節参照)。熟議というものには時間が必要です。

今回の箇所は、古代人たちが「わたし」と「わたしの民」を同一視していることも伝えています。住民も領主も、「わたし」=「わたしたち」を自在に交替させることができます。全体に起こることはわたしの出来事であり、個人的なことは社会全体の出来事なのです。組織の構成員はすべて、その組織を代表・代理すると考えられています。

この考え方の積極的な面は、イエス・キリストの贖罪死という信仰に結実します。世界全体の苦しみや、世界全体の罪を背負う個人。神の独り子イエスは、人の子らを代表・代理して苦しみを受け殺されていきます。そして、すべての被造物を代表・代理して神によみがえらされるのです。このイエスの永遠の命をわたしたちは受け取って生きまた死ぬことができます。それが救いです。

ただし否定的な面もおさえておく必要もあります。「わたし」=「わたしたち」は、「恥の文化」を持つ日本において、世間体に縛られることにもなりかねません。また、組織を守るために個人を切り捨てることや、権力者による組織の私物化にもつながりかねません。「個の確立」を大原則にしたいものです。 JK