2018/04/18今週の一言

4/18の聖書のいづみではサムエル記上669節を学びました。祭司たちと占い師たちの提言は続きます。彼らは疫病という「災難」を引き起こした者が、イスラエルの神なのか、それとも偶然に過ぎないのかを知ろうとします。占いを行うのです。

 彼らの占いのルールは次のようなものでした。真新しい牛車を用意して、そこに先週紹介のヤハウェの箱と賠償を載せます。そして一度も牛車を引いたことのない雌牛にそれを引かせます。もし慣れた牛だったら、慣れ親しんだ道を自然に行ってしまうからです。これは習慣による行動をとらせないようにする工夫です。

 さらに雌牛は授乳中の母牛とし、あえて子牛と引き離します。本能的には子牛の方向に帰ろうとするはずです。これは本能による行動をとらせないようにする工夫です。それによって「雑音」を排除して、より純粋な神の意思を占おうとしているのです。

 その上で、「もしベト・シェメシュという町を経由してイスラエルの方向に牛車が進むのならば、災難を起こしたのはヤハウェ神であり、もしそうでないならば偶然の災難だったと考えることとする」のです。現代人から見ると実に奇妙な占いですが、なるべく客観性を重んじて神の意思を問おうとする姿勢は伺えます。

 今日わたしたちはどのようにして神の意思を問うことができるでしょうか。民主国家において大原則は「多数者の優位」です。国王や、その周りの貴族という少数者の意思が、国家全体の意思となるよりも、多数者の意思こそが優先されるのだという原則です。多数の人にとって好ましい方法を採るという原則に則って、法律の制定や執行がなされたり、選挙が行われたり、各種の世論調査が行われたりします。不公正な仕方で一部の人が優遇される場合、選挙制度自体の歪みがある場合、一つの方向に誘導する恣意的な問い立てが世論調査でなされる場合、わたしたちは古代の占いを笑えません。多数の優位が民主的正統性を担保します。

 ただしかし、多数者の意思が民意であり神の意思であるかと言えば、そこにも疑問符が付きます。なぜなら、立憲主義の原則は、「多数者であっても奪ってはいけない少数者の権利の保護」にあるからです。力を持たない「小さな存在」の意思も、民意の一部であり、もしかすると神の意思かもしれません。イエス・キリストの説く隣人愛の教えは、どちらかと言えば、「大」よりも「小」、「多」よりも「少」に傾いた偏愛の教えです。

キリスト者は小さくされている者を指標に世界を「占う」ことができます。JK