5/16の聖書のいづみは、サムエル記上6章19-21節を学びました。
19節のヘブライ語聖書本文は、ギリシャ語訳聖書本文とかなり異なります。比較すると次の通りです(ただし私訳)。
【ヘブライ語】
そして彼はベト・シェメシュの人々を打った。実際、ヤハウェの箱を彼らは見たのだが。
【ギリシャ語訳】
そしてベト・シェメシュの人々のうちでエコニヤの息子たちは喜ばなかった。実際、ヤハウェの箱を彼らは見たのだが。
おそらくギリシャ語訳が元来の文言を保存しています。日本語訳聖書の中でも、岩波訳聖書とバルバロ訳聖書は、ギリシャ語訳の本文を採用しています。そちらの方が文脈に適うからです。
ヘブライ語本文を採ると、ヤハウェがベト・シェメシュの人々を打つ理由が不明瞭です。ヤハウェの箱を見ることが罪であるならば、前節までの祭儀に参加した人々はみな打たれなければならないでしょう。そこでヘブライ語本文を採る場合には、新共同訳聖書のように「ヤハウェの箱の中を覗く」というように補足して意訳せざるをえないのです。しかし住民全員が覗くことは不可能でしょう。
ギリシャ語訳本文は、特定の家族・親族が祝祭に参加しなかったということを問題視しています。おそらく70人程度の親類縁者を抱えるエコニヤ家の人々は、ヤハウェの箱の帰還を喜ばず、ただそれを眺め、喜ぶ町の人々を冷めた目で見ていたのでしょう。後にダビデ王がヤハウェの箱の前で喜び踊っていた姿を、妻ミカルが冷ややかに眺めていた姿と重なります(サムエル記下6章16節)。
ヤハウェの箱を見ながら、喜ぶ者と共に喜ばないエコニヤ家に対して、ヤハウェは厳しく臨みます。それは冷笑主義(cynicism)に対する、熱情の神・心を燃やす聖霊からの批判です。
今日、冷笑と嘲笑は世界を覆いつつあります。キリスト教会は世相に対する「対抗文化(counter culture)」を構築するという使命を持ちます。喜ぶ者と共に喜ぶこと、温かい感情を動かし合う雰囲気を醸し出すこと。それらを祝祭としての礼拝を復権することで行うことで、冷笑と嘲笑の時代を乗り越えましょう。 JK