5/30の聖書のいづみは、サムエル記上7章5-8節を学びました。聖書研究の基本は繰り返されている単語に注目することです。そこに著者の強調があり、そこに理解の鍵があるからです。
5-8節には、「ミツパ(眺望の意)」という地名が四回、「集まる(ヘブライ語カバツ)」という動詞が三回繰り返し用いられています。この箇所は、祭司であり士師(裁判による統治を行う指導者)であるサムエルが、イスラエルの民全員を招集し、共に礼拝を捧げる場面です。現代にも通じる、「礼拝とは何か」という教えがここにあります。
礼拝は、自分の意思で集まることであり、神によって集められることであり、友と共に集まることです。動詞カバツは、5節においては基本態で用いられ、6節においては受動態(ないしは相互行為)で用いられ、7節においては再帰態で用いられています。6節は「集められた/互いに集まった」、7節は「自分たちのために集まった/自分たちを集めた」とも翻訳できます。これら全ては同時に正しい言い方です。わたしたちは、自分の意思により、神の意思により、友の励まし合いにより日曜日礼拝するために集まるからです。
礼拝の主要要素は祈りです。「祈る(パラル)」という行為は必ず再帰態で表現されます。原意は「自分自身を砕く」ことです。サムエルの祈りについて発言内容が記されていません。もしかするとそれは母親ハンナのような黙祷だったかもしれません(1章13節)。民がサムエルに願う「黙っていないでください」(8節)は、サムエルの祈り方の特徴に由来していたかもしれません。サムエルは黙って自らを砕きます。その祈りが、イスラエルの民を深い悔い改めに導きます。
この悔い改めは、何に対するものか文脈上明らかではありません。直前でイスラエルの民が責められることを行っていないからです(4節)。黙祷し罪を告白する民は、20年前を眺望したのではないでしょうか。イスラエルが無謀な侵略戦争をペリシテに仕掛け、その結果敗戦を重ね、ヤハウェの箱を失い、シロの神殿を失った、あの一連の出来事まで遡って罪責告白をしたように思えます(4-6章)。ミツパ(眺望)という地名が、それを示唆します。
教会は世の光です。隠れることができない、山の上にある町にたとえられます(マタイによる福音書5章14節)。礼拝に集まる民は、黙って共に祈りながら、世界と歴史を眺望します。過去への眺望は、当然に未来への眺望とつながります。神の山は、天と地の結節点であり、未来と過去の結節点です。 JK