最近、とある国会議員の私塾に招かれて、選挙制度についてお話をする機会が与えられました。選挙が神学の課題となりうるのか、聖書は選挙について何を語りうるのか、ひいてはわたしたちの信仰生活にとって何の関係があるのか、少し考えてみます。
古代東地中海・西アジアという聖書の世界には、現代のような民主政治制度は整っていません。古代ギリシャの民主政治体制を、聖書の読者たちは知っていた可能性はありますが、それを積極的に採り入れようとはしていません。そこで当然のことながら、聖書において政治的代表者を選ぶ仕組みは選挙ではありません。二つの形式の選び方がなされます。
一つは世襲の王に政治権力を委ねる形式です。最も有名なものはダビデ王朝です。途中で「王位簒奪者」と否定的に評価されている女王もいましたが、原則的に最初に生まれた息子によって王位が継承されます。ダビデ王朝は古代社会では珍しく400年以上も続きました。王制は選挙と最も距離のある仕組みです。特に家父長制と結びつく時に、現代のわたしたちが倣うべきものは何もありません。
二つ目はカリスマ性のある指導者に政治権力を委ねる形式です。その代表者はモーセです。モーセには神の霊が宿っていたとされます。神の霊を宿し、神の言葉を語ることができる一代限りの特殊な人物を、「預言者」と呼びます。モーセは、立法(律法)・司法・行政、軍事まで含め、すべての権力を掌握しています。しかし、その子どもには政治権力を譲らず、別部族のヨシュアに神の霊を継承します。このカリスマ的指導者の流れに「士師」がいます。現代のわたしたちは、独裁政治への警戒から、カリスマ的指導者に委ねる形式も採るべきではありません。
二つの代表の選び方は肯定的にのみ語られていません。なぜならイスラエルは自治を失ってしまうからです。選び方の駄目さ加減も、古代イスラエル国家の滅亡によって明らかになります。そしてイスラエルは「ユダヤ人」として、つまり信仰共同体としてのみ存続が許されます。それはつまり、自分たちの政治的代表を自分たちで選ぶ権限を喪失したということです。
ここからイスラエルの、この件に関する「もどかしさ」が始まります。一方で過去の歴史に対する反省から、王制・カリスマには頼るべきではありません。他方で、では大国の植民地状態に甘んじるべきなのでしょうか。信仰共同体は政治権力など生臭い話題に触れない方が良いのでしょうか。自治を勝ち取るべきなのでしょうか。その場合の代表者をどのように選ぶべきなのでしょうか。JK(続く)