イエスの十字架は民主制と呼ばれるものに深い問いを突きつけています。
「民が主である制度」は、「王や貴族が主である制度」の改良として生まれたものです。少数の世襲指導者に統治権を委ねることよりも、その都度の不特定多数を代表する者たちに統治権を委ねるほうが良いという考え方に基づく改良です。その都度の不特定多数を代表する者が誰であるのかを測るために、「選挙」という仕組みを採ります。「間接民主制」あるいは「代表制民主政治」とも呼ばれます。選挙が「民主主義のインフラ(基礎構造)」と呼ばれる所以です。〔ところで「-ism」が付かないのに、なぜDemocracyを「民主主義」と翻訳するのでしょうか。〕
当時のユダヤ人たち、あるいはローマ帝国の全住民は、自分たちの代表である「真の神の子」を選ぶことができませんでした。むしろ殺すことを選びました。神のみがイエスをよみがえらせ、政治権力をも持つメシアと任命したのでした。
イエスを殺す行為を聖書は「罪」と呼びます。十字架によって全ての人が罪人であることが示されたと、わたしたちは信じています。この罪はあらゆる時代・地域の人びとに当てはまります。民主的選挙をもってしても、適切な政治的代表者を選ぶことが、罪人たるわたしたちにそもそもできるのでしょうか。
原理的には神にしかできません。ただし述べてきたとおり、未熟な「民主主義のインフラ」も要因となってイエスは殺害されました。だからよりましな仕組みとしての選挙制度を日々磨き上げなくてはなりません。どの国・地域も、政治的代表者選びの仕組みづくりには苦慮しています。その工夫努力を怠らないことです。いずれにせよ政治権力者は「過ちも犯しうる暫定的な代表者」に過ぎない者です。
即位したメシアは、政治権力を今どのように奮っているのでしょうか。イエスは「見える代表」としては世界に君臨していません。むしろ信徒一人ひとりの中に霊を分与し、見えない形で「地の塩」として世界に仕えています。聖霊は、世界で小さくされている人を励まし政治的力を付与し(empowerment)、政治的力の使い方を教えます。この世界で力を奪われている人のために政治権力は用いられるべきであり、自らの支配欲のために濫用されるべきではありません。十字架・復活・聖霊の派遣は、神と隣人を愛する道・仕える道を教える主権者教育です。
代表制民主政治が機能するためには、制度面の改善だけでは足りません。代表を選ぶ、不特定多数を成す個々人が政治的力の用い方を学ぶ必要もあります。そのような成熟した不特定多数から選ばれた代表は、同様に成熟した特定の個人である可能性が高まります。「イエスを選挙で選ぶ」ことは不可能ではありません。JK