10月24日の「聖書のいづみ」は、サムエル記上9章5-10節を学びました。雌ロバを探すサウルと少年従者の対話の場面です。彼らは、自宅に戻るべきか、それともラマに住むサムエルに会いに行くべきかを論じます。
サウルは「わたしたちは帰ろう」(5節)と提案します。それに対して従者は、「神の人(サムエルのこと)のところに行こう。そうすれば進むべき道を知らせてくれるだろう」(6節)と反論します。雌ロバを探すべきか、自宅に帰るべきか、あるいは、雌ロバがどの辺りにいるのかの神託を得ようと言うのです。
ここでサウルは相手の意見を汲み取りながら、神の人に合う場合に起こりうる新たな課題を、論点として示します。「袋のパンは尽きた。神の人に渡すための土産を持っていないがどうすべきか」と言うのです(7節)。当時の風習として、神の人/先見者/預言者に神託を求める際には、食べ物等の土産を渡していたからです(列王記上14章1-3節)。従者は答えます。「銀四分の一シェケルがある。これをわたしが渡す」(8節)。
この言葉はサウルを納得させました。「あなたの言葉は良い。あなたは行け。わたしたちは行こう」(10節直訳)。
ここには現代に通じる示唆があります。一つにはサウルの指導者としての資質です。彼は最初に帰宅を提案します。指導者というのは、発案をする役割を持っています。しかし、自説にこだわらないのです。サウルは、従者の提案も十分に聞いています。そして最終的には従者の意見に従うのです。全体の合意に従うことも指導者の資質の一つです。
二つ目に、合意形成の仕方・協議の方法です。サウルは従者の提案を全否定しませんでした。従者の提案に乗った上で、その提案の弱点をつきました。「土産が無い。無報酬では断られる」という問題です。その反論に対して従者は、再反論を用意していました。「パンはないが、銀はある」ということです。
議論というものは本来美しいものです。議論は、感情を害するだけの非難の応酬ではありません。むしろ、建設的批判精神に基づき論ずべき点(論点)を出し合い、合意を見出そうと努力し合う行為です。反論の反論があれば、全体に納得が調達されます。
「わたしたちは行こう」という表現は、原文では4回も繰り返されています(6・7・9・10節)。教会/連盟/教界/社会全体の行くべき道を論じたいものです。JK