11月7日の「聖書のいづみ」は、サムエル記上9章11-13節を学びました。聖書に描かれている歴史は、圧倒的に「his-story(彼の物語)」、つまり、男性たちが描いた男性たちが主人公のhistory(歴史)です。女性の著者がいたかどうかは不明です。女性の名前を冠した文書は、わずかに二つだけです。
今回の箇所は例外的に、女性たちが物語を前に進める役回りとなっています。性差別を重大な人権侵害と捉える、現代の読者はこのような物語を積極的に採り上げる必要があります。her-story(彼女の物語)や、their-stories(さまざまな人々の諸物語)を掘り起こすことで、信仰共同体の歩みが立体的に立ち上がります。
先見者サムエルを見出すためにサウルと男性従者はラマという町に向かっています。その途上、水汲みのためにラマから出てきた女性従者たちと、彼らは出会います。下線部は、性別・単複が異なる同単語「ナアル」です。振り返れば、サムエル自身も祭司エリの男性従者でした。新共同訳聖書は、2章11節では「幼子」、2章21節・3章1節・同8節では「少年」、9章3節では「若い者」、9章8節では「若者」、9章11節では「娘たち」と訳し分けていますが、原語は同じナアルです。
サムエル記の前半は従者たちが歴史を導いています。サムエルはエリの従者だった頃から、「預言者」としての名声を確立していました(3章19節-4章1節)。そして今や彼は「神の人」「先見者」とも呼ばれて尊敬され、その言葉どおりに出来事が起こるとまで評されています(9章6節。2章27節以降も参照)。元従者(サムエル)を見出そうとする従者とその主人(サウル)、この三者の出会いを手伝った従者。仕える者たちが、歴史を主導します。
女性従者たちが繰り返し使う言葉が印象的です。「今」(12・13節1回ずつ。ただし12節は訳出されていない)と、「今日」(12節2回、13節1回)です。彼女たちが今という瞬間や、今日という日を大切にしていることが伺えます。霊である神が導く今/今日があり、霊である神が引き起こす出会いがあります。その刹那の時を見出す感性が求められます。
イエスがアッバ(お父ちゃん)と呼んだ神、神の息子であるイエス、両者共に男性名詞です。キリスト教の良い点は、「聖霊」という女性名詞の神をも、三位一体の神の一つとして信じていることです。サムエルの執行する祝祭の食事に女性たちは招かれていませんでした。わたしたちは主の晩餐/礼拝に誰を招くべきなのでしょうか。今日、聖霊は何をわたしたちに促しているのでしょうか。JK