1月30日の聖書のいづみは、フィリピの信徒への手紙1章1-2節を学びました。手紙の書き出し・挨拶です。以下に、ギリシャ語原文の語順を意識した私訳を掲げます。
1 パウロとテモテ。キリスト・イエスの僕。フィリピに居る、キリスト・イエスにあるすべての聖なる者たち、並びに監督たちと執事たちへ。
2 恵みがあなたたちに、そしてわたしたちの父である神と主イエス・キリストから平和が(あるように)。
テモテという人物については使徒言行録16章1-5節に、比較的詳しく紹介されています。母親がユダヤ人キリスト者、父親がギリシャ人。そしてテモテ自身もリストラという町の教会の有力な信徒でした。パウロは、実に異例なことに、テモテに割礼(ユダヤ人になるための儀式)を施します。それ以来、テモテはパウロの旅に同行し、フィリピの教会設立にも参与しています。使徒言行録の著者ルカはフィリピ教会の中心人物の一人ですから、テモテとルカは直接よく知る仲です。パウロの最晩年、ローマ軟禁中にフィリピ書が書かれたとするならば、テモテはルカと共にパウロの最後も看取ったことが推測されます。
「キリスト・イエス」と書く場合と、「イエス・キリスト」と書く場合に、意味の違いはありません。古来、熱い論戦が交わされている点ですが、これはギリシャ語文法に由来する、パウロ独特の文体だと考えられます。これ以上深入りすると、かえって理解しづらくなると思うので、詳細は省きます。
「キリスト・イエスにある」という表現もパウロ独特のものです。「にある」の部分は前置詞en(英語のinの語源)の訳です。「フィリピに居る」には明確に動詞が用いられているので、区別するために動詞が用いられている場合には「有る/居る」と訳し、前置詞enの場合には「にある」と訳すこととします。この場合の「聖なる者」はキリスト者という意味です。すべてのキリスト信徒はキリストの中にある、キリストに取り囲まれた状態に置かれていると、パウロは考えています。
キリスト者には、まず上からの恵みが垂直に下り、続けざまに、ほぼ同時に水平の平和が与えられます。恵みと平和を、この順番で一対のもの・同義のものとして語るのもパウロの癖です(コリントの信徒への手紙一1章3節、テサロニケの信徒への手紙一1章1節)。JK