2019/02/20今週の一言

2月20日の聖書のいづみは、フィリピの信徒への手紙1章9-11節を学びました。以下は、ギリシャ語原文の語順を意識した直訳調の私訳です。

 

9 そして私はこのことを祈る。すなわち、あなたたちの愛がさらにまたさらに豊かになるように、認識とすべての感知において、

10 あなたたちが、際立つ事柄を吟味するために。その結果、あなたたちは純粋かつ咎められなくなる、キリストの日へと、

11 満たされながら、イエス・キリストを通しての義の実で、神の栄光と賛美へと。

 

9節のパウロの祈りが11節末尾にまで及ぶのかどうかが、解釈/翻訳(英語では同じinterpretation)の一つの分かれ道です。新共同訳は、10節途中も「見分けられるように」、11節末尾も「できるように」としていますから、11節末尾までを祈りの内容としています。私訳はそれに対して、10節途中「吟味するために」までを祈りとし、「その結果」、フィリピ教会の人々に起こることがらを述べているという解釈の立場です。

パウロの祈りは、教会の者たちの愛が増し加わることでした。愛は、意外なことに、最も優れているものが何かを吟味するために必要です。「認識とあらゆる感知において」、知性と感性を総動員して吟味する場合にも、基盤は愛なのです。なぜなら愛が最も優れているからです。

愛の模範はイエス・キリストです。罪人でしかない者を、一方的に「義」としてくださる救い主の愛です。義人イエス・キリストを通して、その恵みに対して、わたしたちは応答をします。それが「義の実」です。「実(karpos)」は、「結果」という意味を持ちます。多くの写本は、実を複数形に修正しています。「罪人かつ義人」という救いを受けた者は、多種多様な形でその愛に応答するものです。

「キリストの日」は、義の太陽であるイエス・キリストが到来し世界が完成する日です。その日に向かって、その陽に照らされて、わたしたちは純粋になっていきます。また、咎められなくなっていきます。「咎められない」(aproskopos)という形容詞の原意は、「躓かない/躓かせない」です。

世界の完成に向かう歩みは、道路整備に譬えられます。でこぼこの道を平らにし、「真っすぐ」という道を造っていく作業です。そんなに広い道ではなくても構いません。自分と隣人が迷わず、躓かない道を、先人たちの祈りに支えられて造り出したいものです。JK