4/17の「聖書のいづみ」ではフィリピの信徒への手紙1章20-21節を学びました。直訳風私訳は以下のとおりです。
20 〔以上は〕わたしの切望と希望に従って〔のことである〕。わたしは何をも恥としないだろう。むしろあらゆる堂々さにおいて、いつものようにまた今も、命を通してであれ死を通してであれ、わたしの体の中でキリストが大きくなるだろう。
21 というのも、わたしにとって生きることはキリスト、そして死ぬことは利益だから。
キリスト教は「希望の宗教」とも呼ばれます。「希望」(ギリシャ語エルピス)という言葉は、新約聖書においてしばしばイエス・キリストの復活と結びついて述べられます。フィリピの信徒への手紙は、パウロという初代教会の指導者(使徒)が書いた手紙です。パウロは「希望」という言葉のヘビーユーザーです。新約聖書全体で53回登場する「希望」のうち25回がパウロによるものです。
パウロは、キリストの復活を信徒の希望として語ります。それは独特の言い方になります。抽象的な漠然とした期待というものではありません。また死後の世界の話や、世界の終末といった、雲をもつかむような話でもありません。むしろパウロは、現在の信徒の日常生活・人生・生き方と深く関わるものとして「希望」を語ります。なぜならキリストの復活の大前提には、イエスの十字架刑死があるからです。誰も死ななければ蘇ることはできません。しかもイエスの処刑は冤罪の結果のものであり、不条理な苦しみの末の虐殺でした。
パウロはこの手紙を獄中、軟禁状態で記しています。そしてその後処刑されたと言い伝えられています。彼は自分の境遇を、イエスの十字架と重ね合わせて理解しています。ひどい裁判の中でもイエスは堂々としていました。それと同じくパウロは裁判で堂々と自分の信仰を披瀝し、裁判の弁明を通して福音Gospelを宣教します。たとえその信仰内容(皇帝崇拝の拒否)が処刑理由になっても貫きます。福音を恥としない。そのように生きることがキリストの生をなぞる歩みとなるからです。
苦しみを受けたイエスをよみがえらせた神は、自分をもよみがえらせることができるという希望を、苦難を耐え忍ぶ中でパウロは確信していきます。心中の確信が、「自分の中でキリストが大きくなる」という事態です。
わたしたちの人生においても不意に十字架(理由のない苦しみ)を背負わされることがあります。キリスト信仰は、忍耐・練達・希望を苦しい日常生活の中で大きくしていきます。Hallelujah, You are big in me! JK