2019/05/08今週の一言

5/8の「聖書のいづみ」ではフィリピの信徒への手紙1章25-26節を学びました。直訳風私訳は以下のとおりです。

25 そしてこのこと〔上記のこと〕を確信しているので、私は以下のことを知っている。すなわち私が留まるであろうということを、また、私があなたたち全ての傍らに留まるであろうということを、あなたたちの信仰の前進と喜びを目指して。

26 それは、あなたたちの誇りが豊かになるためである、キリスト・イエスにあって、私にあって、私のあなたたちのもとへの再到来によって。

25節の「確信している」「知っている」は、いずれも完了時制の動詞が用いられています。完了という時制は、過去に行われた動作の効果が現在にまで至っていることを表現するためのものです。パウロは過去のいつかの時点で、「肉に留まること(生き続けること)がフィリピ教会にとってより必要である」との確信を得ました。その確信に基づいて、25節以降のことがらの起こることを予想しています。その確信と予想は、今もずっと続いているのです。

生きることが必要とされているのならば、自分は必ず生き続ける、そしてフィリピ教会の信徒すべての傍らに生きることができるという確信と予想は、軟禁拘留中のパウロに二重の励ましを与えています。その二重性は、生き長らえるかもしれないし殺されるかもしれないという板挟み状況における心の揺らぎでもあります。

一つは、裁判に勝訴して解放され、自由にフィリピ教会を再訪するという希望です。「わたしのあなたたちのもとへの再到来」(26節)は、端的にその希望を言い表しています。

その一方で、生き続けることを「留まる」(ギリシャ語メノー)という言い方で表現していることに、もう一つの希望が暗示されています。仮に獄中にずっと居ることになっても、あるいは死刑執行をされたとしても、パウロ自身はフィリピ教会やひいては全ての教会の信徒たちと、繋がり続けているのだという希望です。「留まる」という言葉は、ヨハネ福音書15章の「まことのぶどうの木のたとえ」に用いられる言葉です。幹であるキリストに繋がるということ、それによって教会という交わりに繋がり続けることのたとえです。

手紙のやりとりができること、祈り合うことができること、同じ救い主の再到来の際に必ず出会うことができるということ。これらの信仰・希望・愛が、現にパウロと諸教会の間にネットワークを形成しています。この信頼のネットワークという神の国は、今も前進し続けています。JK