7/3の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章9-11節を学びました。以下に直訳風私訳を記します。
9 それゆえに神も彼を高く上げた。そして彼は全ての名の上にある名を彼に賜った。
10 その結果、イエスの名において、天上のもの地上のもの地下のものの全ての膝が跪くため、
11 また全ての舌が告白するためである、「主イエス・キリストが、神・父の栄光へと(至る)」と。
「キリスト讃歌」の後半です。
イエスの従順という低さのゆえに、また十字架という低さのゆえに、「神も彼を高く上げた」と言われます(9節)。イエスの復活は神が彼を起こしたことであり、イエスの昇天は神が彼を天に上げた行為です。神の子が、元来の神の右の座に帰ることです。「全ての名の上にある名」とは「神の子」という称号でしょう。
フィリピの町は、ローマ帝国の退役軍人たちが多く住む植民都市です。皇帝を神の子と奉じ、崇拝の対象としていた人々の真ん中で、パウロたちは宣教をしていました。礼拝行為そのものが、「対抗文化」を形づくることだったのです。
「イエスの名において」(10節)は、「イエスの名前を呼ぶ礼拝行為をしている場面において」という意味でしょう。わたしたちが毎週捧げる礼拝には、思いもよらない広がりと奥行きがあります。すなわち、先に天に召された人々や、今地上にあってわたしたちと繋がっている人々や、イエスの名を知らずに召された人々も、この礼拝に連なりうるという可能性です。十字架で殺され、黄泉に下り、天に挙げられたイエスは、それら三つの世界の全ての命に礼拝されうるのです。
初代教会の教会員は、わたしたち日本のキリスト者と同じく、必ず非信者の家族を持っています。「キリストを知らないまま死んだ家族は救われるのか」という問いは切実です。それに対して、キリスト讃歌は深い慰めを与えています。
11節は、二通りの翻訳可能性があります。大方の訳のように、信仰告白の内容を「イエス・キリストが主(である)」に限る場合。そして、私訳のように「主イエス・キリストが、神・父の栄光へと(至る)」までを信仰告白の内容とする場合です。全く動詞が存在しないので、本文は曖昧です。
前者の場合、「神・父の栄光へと」が訳しにくくなります。後者の場合、有名な聖句に重大な変更が要請されます。これこそ聖書を原語に遡って読む醍醐味です。愛唱聖句でさえ、わたしたちを揺さぶり、わたしたちが一旦得たと思う信仰の内容に挑戦してくるのです。 JK