7/10の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章12-13節を学びました。以下に直訳風私訳を記します。
12 それだから、私の愛する者たちよ、あなたたちが常に従ったように、私の臨在におけるようにだけではなく、むしろ今や私の不在においてなおさらもっと、恐れとおののきをもってあなたたち自身の救いを作出しなさい。
13 というのも、神はあなたたちにおいて働いている方だからだ、(救いを)欲するようにとまた働くようにと、その善意を超えて。
12節と13節の内容は、矛盾した内容を含んでいます。キリスト教用語で言う「行為義認」と「信仰義認」、仏教用語で言う「自力本願」と「他力本願」が、それぞれ12節と13節で言い表されています。人は自分の努力で宗教的救済を得ることができるのでしょうか。それとも人は、ただ超越者(神)によってのみ宗教的救済を与えられるのでしょうか。
パウロは(またアウグスティヌス、ルターといった神学者たちも)、信仰義認に力点を置いています。プロテスタント諸派も「信仰のみ・キリストのみ・恵みのみ」を旨としています。それだけに12節のパウロの勧告は衝撃的です。「あなたたち自身の救いを作出しなさい」とは驚きです。この勧めは、「律法を行うことによっては誰も救われない」との、従来のパウロの主張と対立します。人間は自分の救いを生み出すことができるというのですから。
パウロは直後に修正します。「人間たちの善意(誰彼を救いたい等)を超えて、自分の救いを欲することも自分の救いのために努力することも、神の働きかけによってもたらされる。だから、厳密には救いは神によって与えられるのだ」という具合です。ただし衝撃を今ひとつ緩和していない感は否めません。
信仰の出発点(救われたいと願うこと)に神は働きかけます。その後、わたしたちは神の無条件の肯定・赦しを受け入れ救われます(義認)。救いの象徴であるバプテスマを受けた後も、わたしたちは教会に通い続けます。その中で、毎週生き方の方向付けがなされ、各自が自分の救いを作出し続けます(聖化)。最後に、信仰の目標としてイエス・キリストがもう一度この世界に来る時に、自分も含む全世界の救いが完成します。その時完全にキリストのようになるのです(栄化)。
信仰生活には常に二つの極が存在します。「すでに救われたから大丈夫」という慰めと、「いまだ救われていないから頑張ろう」という励ましとの間の緊張関係を意識していたいと思います。 JK