7/17の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章14-15節を学びました。以下に直訳風私訳を記します。
14 あなたたちは、つぶやきと議論なしに、全てのことをせよ。
15 その結果、あなたたちが責められない者たちや混じりけのない者たちや、咎められない神 の子らになるために、歪みかつ曲がった同時代の真ん中で――そしてそれら(関係代名詞)において世界の中の光体(複数)のようにあなたたちは輝いている――。
「つぶやきと議論」は、民主政治にとっては必要不可欠のものです。人々の困窮や呻き声を、対話努力によるさまざまな利害調整を経て、全体の納得する解決に昇華することが、民主政治の理想だからです。古代アテネの民会(エクレシア)の自治も、初代教会(エクレシア)の自治も、基本は同じです。夫のいない女性たちの苦情(ここでの「つぶやき」と同単語)が、初代教会にギリシャ語使用の教会員を代表する「執事選挙制度」という民主化をもたらしました(使徒言行録6章1節)。
だから一方で、民主政治が機能不全に陥らないように「歪みかつ曲がった同時代の真ん中で」「つぶやきと議論」を汲み上げていくことが必要です。
しかし他方で、「つぶやきと議論なしに全てのことを」なす必要もあります。特に「神の子ら」になるためには「つぶやきと議論」とは別次元の大切なことがらがあります。それは常に隣人となろうとする構えです。フィリピの教会には人間関係の葛藤があったようです(4章2節)。もしも「サマリア人の譬え話」の主人公のように各人が振舞うのならば軋轢は回避されます。訴えられる前に共感し仕えるという日頃の姿勢が必要です。教会の交わりの基礎は非言語による交流です。
「子ら」は中性名詞が用いられています(ローマ8章16節も)。男女の別や性別の枠を超えた表現です。教会において、もはや男も女もないのです。教会が「男らしさ」「女らしさ」のようなジェンダー(社会的に形作られた性別役割)に引きずられることは、「責め」「混じりけ」「咎」の一つです。歪みかつ曲がった同時代においては、キリスト者は夜空の星のような存在です。つまり少数者です。
わたしたちは既に救われている(義と認められている)という意味では「世の光」です。しかし未だ救われていない(イエスの到来を待っている)という意味では「世の光」となるための努力が求められています。義の太陽イエスが昇る前の暗い空を飾る小さな星として、見えたり見えなかったりしながらわたしたちは瞬いているのです。 JK