2019/08/28今週の一言

前回の続き、今回は「参政権」について考えます。

参政権は、自治に参加する権利のことです。しばしば狭く「投票をする権利」と誤解されがちです。もしも参政権が選挙だけに限定されるならば、有権者以外の人々や、投票がどうしてもできない人々は、参政権という権利を使えなくなってしまいます。参政権の別名は「国家への自由」。代表を選ぶだけではなく、自分たち自身が国家権力を使わなくては、とうてい主権者とは言えません。選挙のみならず、なるべく広く参政権という人権をとらえ直す必要があります。

政治的意見表明は、表現の自由(憲法21条)および参政権という人権を一人ひとりが持っているので保障されます。特定の政治主張を弾圧することは、民主政治を機能不全に陥れるので禁じられます。たとえば、明治憲法下の日本のように、政府に反対する政治主張を持っている人々を弾圧すると、その主張は公に知られなくなります。また、弾圧を恐れて多数を形成しようという意思がくじかれます。その結果、選挙が行われても必ずその党派は議席を得られなくなります。だからその政治主張は政策としていつまでも実現しなくなりますし、多数派の政策も異論によって磨かれなくなります。個人の人権侵害でもあり全体にとっても損なのです。

日本の現在の法律では18歳未満の人々に選挙運動が認められていません。政治的デモのために公道や公園が使いづらくなっています。特定の公務員(特に教員)も政治的意見表明が制約されています。最高裁判例は外国人の政治活動について否定的です。制約の理由は種々ありえますが、それらの理由が冒頭に述べた人権保障や、健全な民主政治の発展よりも重要かどうか、よく吟味するべきです。「政治の話題はタブー」という萎縮文化に対して一刻も早く対処しなくては、政治的無関心によって民主政そのものが自壊してしまうでしょう。

その一方日本社会は参政権を広くとらえ、自治に参加する主権者を増やそうという工夫を重ねてもいます。「知る権利」はもはや一般的な単語になりました。情報公開法によって、不十分ながらも行政文書の開示請求ができるようになりました。評価は分かれますが、裁判員制度によって抽選で多くの市民が司法権力の一部を使えるようになりました。世田谷区においては抽選で選ばれた区民が、政策立案の一部に参加しています。

モーセは最初一人で裁判を行っていましたが後に役割分担をします。預言者アモスは外国でその国の政策を批判しました。イエスの集団は、一人の少年の差し出した食べ物によって経済政策を定めました。「なるべく広く」は聖書的です。JK