9/25の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙2章22-24節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。
22 さて、彼の証拠をあなたたちは知っている、すなわち、子が父(と共にする)ように、私と共に彼は福音のために仕えたという(証拠を)。
23 だから正にこの彼を私は派遣することを望む、私を巡ることごとをはっきりと見た時すぐに。
24 今や私は主にあって確信した、私自身もまもなく来るだろうということを。
パウロの「愛する子」と称されるテモテについての話題の続きです。
22節の「テモテの証拠をあなたたちは知っている」は、テモテがパウロと共に福音に仕えたということをフィリピ教会が、教会創立の時からその目で見たということを示しています。「福音に仕えたように、テモテはパウロに仕えた」という解釈もありえますが、余りにもパウロ・テモテの「父子関係」を強化するので、採りませんでした。
テモテがフィリピ教会への手紙を運ぶ役も担っていたとすれば、「私(パウロ)を巡ることごとをはっきりと見た時」にかかわらず、テモテは手紙執筆直後にフィリピ教会へと向かったはずです。パウロを巡る状況とは、パウロが釈放されるか拘留され続けるかということでしょう。パウロ自身もどうなるか確言できないことがらです。23節には、パウロの心の揺れ・戸惑いが見て取れます。実際「はっきりと見た」は、ギリシャ語文法の「接続法」で表現され、不確かな未来の予測を含意しています。
しかし24節でパウロは、翻って自分自身を説得するようなかたちで、「すぐに釈放されて自分もフィリピ教会へ赴くことを主にあって確信した」と言い切ります。「確信した」は前述の「接続法」ではなく、「直接法」、つまり単純な言い切りです。しかも「完了」という時制ですから、自分自身の強い思いも込められています。もしもパウロ自身がフィリピに行くことができるなら、テモテが手紙を持参してフィリピに行く必要はなくなるのです。23節と24節の間には、強い緊張関係があります。
確信を持つことは良いことですが、その一方でその確信が間違えているかもしれないという、不確かな未来の予測を含むことも大切です。誰かを説得するばかりではなく、誰かや何かから説得されることを喜ぶ構えも必要です。民主政治は異論の存在を大前提とします。お互いが謙虚でなくては成立しません。 JK