12/11の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章12節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。
12 私がすでに獲得したということでも、あるいは、私がすでに完了したということでもない。しかし、たとえ捉えることができるとしても、私は求めている。それはキリスト・イエスによって私が捉えられたからだ。
信仰義認という「他力本願」を徹底する立場からは、宗教的な救済を自力で獲得することは不可能です。いくつかの有力な古代の写本には、「あるいは、私がすでに義とされたということでもない」という一文も挿入されています。信仰によって義と認められるという救いは、自分の信仰という行いではなく、イエス・キリストの示した神に対する信実なあり方です。
私たちはキリストを獲得することも、キリスト信仰を獲得することもできないのです。
それではキリスト者であるということはどのような事態なのでしょうか。キリスト者/クリスチャンとはバプテスマを受けた後の称号でしょうか。狭い意味ではそうでしょう。洗礼を受けた者がキリスト者です。しかし、救いということがらに関しては、いささか微妙です。バプテスマは救いを象徴しますが、救いを保証したり、救いを完成させたりするわけではありません。人間の行いの一種であるバプテスマという儀式によっても救われないからです。バプテスマによって救われるのではなく、救われた(と信じ告白する)者がバプテスマを受けるのです。
キリスト者であるということは、生涯キリストを追い求める者を指します。なぜならキリストは、私たちが把握したり把捉したりすることができない方だからです。「彼は主だ」と見えた途端に見えなくなるようなものです。たとえ捉えることができたとしても追い求め続ける心が大切です。
キリスト者にとって信仰とは、矢印の向きを逆さまにすることです。私たちは常に目的志向であり、目標や対象を大切にして人生を前向きに歩こうとします。宗教的救いについては、そのような目的志向では到達できません。逆に、「キリストが自分を捉えた、目標の方が私を見つけ出し、捕まえた」と考え、ただその救いの事実を「アーメン(その通り)」と言って受け入れるだけで私たちは救われます。
晩年のパウロが、自身の回心の出来事を常に心に留めていたことに思いを馳せます。彼はキリストに捉えられたのでした。JK