1/15の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章13-14節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。
13 兄弟たちよ、私は、私自身が(すでに)捉えたということを思っていない。しかし一つのことを、後ろの事々を忘れつつ、一方で前の事々へと(自身を)伸ばしつつ、
14 目標に向き合い私は求めている、キリスト・イエスにおける神の上への召しの賞へと。
信仰義認とは、宗教的救済が恵みのみによってタダで与えられるという教えです。イエス・キリストが神に示した信実(信頼に値する誠実さ)によって、わたしたちは無条件で救われています。ただその救いを「アーメン」と受け入れるだけで、罪のあるままに義と認められるのです。
この信仰義認は、人を甘やかしてダメにしてしまう危険性を持ち合わせています。「神が無条件に赦している、それが救いだ」と強弁しながら、自覚的に悪事を行い続けるという欺瞞がまかり通る可能性があるからです。そこで、教会につながる信仰生活が必要となります。いわゆる「聖化」という道のりです。どうすれば神と隣人との前で誠実に生きることができるか、わたしたちは一生求道し続けなくてはなりません。それが救いを受け入れた者の責任です。
パウロは聖化を、「後ろを無視して、前へ体を伸ばすこと」ことと表現しています。目標をはるかに見据えるというよりは、目標に向き合うという言い方なので、壁のような課題に直面して、それを全力で押すような感覚でしょう。ラグビーで言えばスクラムを組んで、前へとじりじりと前進していくようなものです。そういう時に、後ろのことを考えることはできません。共に礼拝を捧げる行為は、共に前へ進むことへの献身的な努力です。
2世紀のテルトゥリアヌスという教父が持っていた聖書は、13節「思っていない」を「まだ思っていない」、14節「上への召しの賞」を「非難する所の無い賞」としています。この二つの異読は、どちらも信徒の聖化を強調しています。死ぬまでにキリストを捉える可能性を否定していないし、生涯かけて非難する所の無い人間になることを求めているからです。
テルトゥリアヌスという教会指導者は独創的な人だったと伝えられます。40歳で入信し、法律用語を駆使して「異端(マルキオン派)」に反論しながら、自らは別の「異端(モンタノス派)」に身を投じる時期もありました。自由な精神を持つ彼が聖書本文をあえて書き換えて、聖化を強調した可能性があります。JK