1/29の聖書のいづみでは、フィリピの信徒への手紙3章15-16節を学びました。以下にギリシャ語の語順を意識した直訳風私訳を記します。
15 だからすべて完全な者たちは、(すなわち)私たちはこのことを考えるべきだ。そしてもし、あなたたちが別のように何かを考えているのならば、神はそのことをもあなたたちに啓示するだろう。
16 いずれにせよ私たちが到達したところへと、そこに並ぶこと。
「考える」はパウロのお気に入りの動詞であり、特にフィリピ書の鍵語です。新約聖書全体で26回用いられているところ、パウロが大半の22回、しかもフィリピ書に10回も集中しています(1:7、2:2、2:2、2:5、3:15、3:15、3:19、4:2、4:10、4:10)。15節によれば、神は考える人に啓示するかたです。
15節にある一回目の「考える」対象は、14節に書かれていることがらでしょう。すなわち、目標に向き合い後ろを忘れつつ前に自身を伸ばすことを、わたしたちは考えるべきです。あるいは神のくださる「賞」のことを考えるべきです。
二回目の「考える」対象は、「別の何か」です。パウロは自分のことを「完全な者」と称していますが、それはあまり重い意味ではありません。自分の意見以外の異見を考える自由を、フィリピの教会員たちに許容しているからです。「自分の意見が絶対に正しいから、何も考えずに従え」という言い方は、神をも恐れぬ態度です。「わたしとは別の考えが神からの霊感、神の意思なのかもしれない」という構えこそ、話し合いというものの大前提です。
いずれにせよ考えるということは良いことです。裏腹の関係ですが、思考停止こそ忌むべきことです。
16節「並ぶ」は、隊列に加わるイメージです。旧約聖書にも死ぬことや墓に入ることを「先祖の列に加わる」と表現する場合があります。パウロは、自分たち完全な者たちが到達した列に加わって並ぶようにフィリピの教会員たちに勧めています。「これが神の意思なのかもしれない」と信じうる何かを得るまで考え抜いた者が並ぶ隊列です。
今日の世界において、考えることの重視は示唆に富みます。煽る人と煽られる人の短絡が、ひとびとの分断を招いているからです。考えることは、他者と共に存在するための技術の一つであり、しかも基礎的な技術です。JK