2020/04/01今週の一言

日曜日の礼拝説教の聖書箇所で、「ヤコブ物語(ヨセフ物語含む)」を読んでいます。比較的ゆっくりと細かく読み進めているので改めて気づかされることも多く、個人的にも有意義な学びとなっています。

しばしば読み過ごされている事実ですが、ヤコブに複数の娘たちがいたことを聖書は明記しています(37章35節)。ヤコブにディナという娘がいたということを知っているだけでかなりの聖書通ではあります(34章)。しかし、そのことだけに満足してはいけないのでしょう。ヤコブや物語の語り手はディナ以外の娘たちを無視し、彼女たちの名前を奪っています。これは端的に女性差別です。

ヤコブが舅ラバンに騙されたことを発端にして、4人の女性と「重婚状態」になったことも男性優位の社会の表れです(29章以降)。女性たちから経済力が奪われていたから富んでいる男性の庇護に入らざるを得なかったし、家長の財産である女性たちが「政略結婚」の道具とされていたのです。女性たちは、夫のため・家のために「長男を生むための存在」に貶められていました。家父長制と一夫多妻制は、「ヤコブ家」の悲劇の基調を成す、構造的な悪です。

しかしその一方で女性たちが無力なままであったわけでもありません。ヤコブとエサウの母リベカは家長である夫イサクを完全に出し抜きます(27章)。またリベカの姪にあたるラケルも、したたかな人物である父ラバンに煮え湯を飲ませるのです(31章)。ラケルの姉レアも神に目を留められた、大人物の風格を漂わせる「Big Mam」です。レアこそが母親による名づけという慣例を創始しています(29章31節以下)。そしてユダの嫁から妻へと「成り上がった」タマルは、ユダをして「彼女は私より正しい」と言わしめるほどの傑物です(38章)。彼女たちは世の中の価値観をひっくり返して人々を解放する「メシア的人物」です。

私たちは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼び慣わしますが、もう少し正確に呼ぶべきです。聖書の神は、サラとハガル(エジプト人。アブラハムの妻)とケトラの神(アブラハムの妻。25章)、リベカの神、レアとラケルとビルハとジルパの神、タマル(カナン人)とアセナト(エジプト人。ヨセフの妻。41章50節)の神です。彼女たちの神がエル・シャダイ(乳房の神)です。サラ、リベカ、レア、タマルはイエスの先祖です。さらにモアブ人女性ルツ、ヘト人女性バト・シェバを加えた「イエス・キリストの系図」には、民族主義を批判する国際的広がりが見てとれます。

エサウの妻たちや(26章34-35節、28章9節、36章)、エジプト人官僚ポティファルの妻(39章)も、物語に国際色という彩を添えていると言えます。 JK