4月19日は、わたしがバプテスマ(洗礼)を受けた記念日です。1981年のことでした。牧師職に就いた今、自分自身のバプテスマについて思い出すたびに恥ずかしさを覚えます。
牧師の五番目の子どもだったわたしは、兄や姉の先例にならって12歳になる頃にバプテスマを受けました。「お前もそろそろだ」という、まったく合理性を欠く、しかし妙な説得力を持った父の言葉に促されて、「誕生日の近くの日」といういい加減な日時設定のもと、バプテスマの実施が決められました。
しかしいわゆる「バプテスマ準備クラス」というものはなく、当日何をなすべきかすらも何も告げられませんでした。親子ということで照れもあったのでしょうが、わたしの父はその類の段取りや、対面の打ち合わせをして準備をすることが苦手な人間でした。そういうわけでバプテスマという儀式の意味(救いの象徴、教会への入会)を学ぶことや、バプテスマ当日の流れ(志願者の信仰告白、全身浸礼、着替え、記念品贈呈)についても何もわからないまま、その日を迎えました。
当時の昭島めぐみ教会は二階の礼拝堂とは別に一階の教育館という建物に浸礼槽があったので、午前中の礼拝が終わってからみなぞろぞろと階段を降りてバプテスマに立ち会うのです。いそいそと白い洗礼着に着替えている時に父が突然、「お前、信仰告白ってえやつが、あるぞな」と叫びました。父は、信州の言葉と江戸っ子言葉が混じった奇妙な言葉遣いをしていました。
「何それ」と聞き直すわたしに、「イエスさまを信じてるってえ作文を読まねえとダメだ。できねえ」と父。そういえば他人のバプテスマの時にその情景を見たことがあります。「先に言ってよ。せめて昨日までに」と心の中で叫びながらも、どうしよう、あと数分でバプテスマが始まってしまう。頭は真っ白です。
そこへ母が、「じゃあ使徒信条を読みなさい。そして、『自分はこれを信じます』と言えばいいじゃない」と助け舟を出してくれました。母も牧師館育ちの人間だったので、こういう時の処世術だけは長けています。そして母はバッグから『聖歌』を取り出し、表紙を開いたところに所収の「使徒信条」を示しました。人生の中で一度も読んだことがない難しい文語の文章でしたが、背に腹は変えられません。
あとは流れに任せて水槽に頭まで浸かったのですが、水の冷たさが鮮烈に思い出されます。父のこだわりでお湯を混ぜることは一切していなかったのです。こうして自覚的主体的信仰告白なしでバプテストの教会員として迎えられ、今に至ります。このような人物が牧師として立てられている不思議を感じます。 JK