2020/05/13今週の一言

人はなぜ集まるのでしょうか。生物学的な動物の防衛本能から言えば、弱いからなのだと思います。特に人間の赤ん坊は他の動物に比べて長期間に渡って自立していないことで有名です。赤ん坊をはじめとする、群れの中で体力的に弱い者たち(年長者、病気の者、しょうがいのある者)を外敵から守るために人間は集落を形成しました。生命を維持するために人は集まります。「生活の量」(生命の長さ)を保障するためとも言えるでしょうか。社会権や福祉の考え方につながります。

集団心理という観点から言えば、快感を得るからなのだと思います。たとえば大相撲観戦にしても、同じ趣味を持つ大勢の人が時間と空間を共有することそのものに快感があります。芸術の鑑賞や、学問的講演会にしろそうです。楽しくて意義のあるところに人は集まります。それは「生活の質」(人生の豊かさ)を高めるいとなみです。自由権や個人の幸福追求権の考え方につながります。

便宜的に二つに分けて考えましたが、実は両者は密接に絡み合っています。どちらのいとなみも生命を維持し、人生を豊かにしてくれるものだからです。趣味の領域で幸せを満喫することが寿命の長さにも影響を及ぼしそうですし、弱い人を手助けすることに生きがいを感じる人は生物学的な意義以上のものを獲得していることでしょう。

礼拝といういとなみも、この両者の結節点にあるように思います。教会は昔から社会的には「小さくされた人々」の避難所として機能していました。また個人の自由を抑圧する国家主義に対して、教会は「否」を言い続けてきました。何よりも信徒は同じ時と場所を共有する毎週の礼拝で明日を生きる力を与えられ、日常生活を豊かにしていったのです。集まる人々の生活の質・量がともに高められ、社会の「塩」や「光」となることに教会の存在意義があります。

コロナ禍のもと集まるということの危険が指摘されています。「生命を維持するために集まらない」という言い方には、人類史を根底からめくり返すものを感じます。わたしたちはこれから先どのように生きたら良いのでしょうか。戻るべき日常なるものは、かつての日常とまったく同じではありえないでしょう。

人数的に集まりすぎが問題ならば、教会は小さな規模になるでしょう。頻度的に集まりすぎが問題ならば、週に一度の礼拝だけになるでしょう。集まらないで集まるならば、オンラインのみの礼拝となるでしょう。免疫力が問題ならば、教会のために体力的に無理しない方が良いでしょう。ん。

世界は泉バプテスト教会化していくかもしれません。ヒマが一番。JK