ヤコブと、その子どもたちの物語を読んでいて、気がついたことがあります。族長と共に旅をする神は、ヤコブの次の世代の人々には決して現れません。直接面と向かって神や神的存在と出会ったり、神の声を聴いたりするのは、ヤコブの世代までなのです。少し遡って、この件を掘り下げましょう。
アブラハム(12章、15章、17-18章、22章)、ハガル(16章、21章)、サラ(18章)までが、ヤコブの祖父母の代です。祖父アブラハムに最も多く神は現れています。その一方でエジプト人女性のハガルの方がサラよりも神と出会っていることも特徴です。神は苦しむ者の神です。
ロト(19章)、リベカ(25章)、イサク(26章)までがヤコブの父母の代です。上の代よりも頻度が低いことが特徴です。特にイサクは族長であるのにもかかわらず、いささか影が薄い印象です。
上の代までは複数の族長が神と出会っていました。しかしヤコブの代からは、ヤコブ個人に集中しています(28章、31章、32章、35章、46章)。一方で双子の兄エサウに神が直接語りかけないことは、イサクの兄イシュマエルに神が現れないことと似ています。他方で、四人の妻たちの誰にも神が現れないことは、ハガルとサラの例に比べると著しい特徴です。集中具合だけではなく、顕現の頻度も祖父アブラハムに匹敵する数です。
神との親しさという点に限れば、創世記の主人公はアブラハムとヤコブと言えなくもないでしょう。
ヤコブの下の代になると、とうとう神は族長たちの前に現れません。ヨセフにもユダにも、その他の兄弟姉妹たちに対しても、神がその面前に出現したり、呼びかけたり、言葉で慰めたり励ましたり、ましてや相撲をとったりすることはありません。神の顕現の傾向によって、「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」という三代止まりの定型句の由来は説明されます。しかし、ハガル・サラ・リベカたち女性陣を排除する理由は説明できません。
神はヤコブの下の代からいなくなったわけではありません。露骨な形で登場しなくても神は共にいたのだし、ヨセフやユダも共におられる神を信じていたはずです(40章8節、45章7節)。見ずに信じる者の方が幸いなのですから、ヨセフの代の族長たちの方が、その上の代の族長たちよりも敬虔であるとさえ言えます。ペンテコステ以来、教会の信仰はヤコブの妻たちや、ヨセフ・ユダ・ディナに倣うものとなりました。現れなくても共におられる神をわたしたちは信じるのです。 JK