2021/01/13今週の一言

バルナバについて様々な想像が湧きます。恥ずかしながら今まで「慰めの子」という意味の名前だとばかり思いこんでいました(使徒言行録4章36節)。聖書に「慰めの子」という意味と書いてあるのだから、そのように理解するのも仕方ないかもしれません。講解説教のおかげで細かく調べることができ、自らの不明を正す学びができて本当にありがたいことです。

「バル」は「~の息子」という意味のアラム語です。問題は次の「ナバ」です。二つの可能性があります。一つは「預言者」(ナビ)。この場合「預言者の息子」となります。ただこの推定は「慰め」に引きずられています。「バルナバという名前は慰めの子でなければならない」という結論から、「預言の内容には慰めや励ましがありえる」と推論しているのです。逆立ちした議論です。

むしろ、ルカが「慰め」という単語を使った理由を探るべきです。おそらく「マナエン」というもう一人のアンティオキア教会指導者の名前の原義を混同したのでしょう(使徒言行録13章1節)。マナエンはヘブライ語メナヘムに由来し、「慰め」という意味です。ルカの第一言語はギリシャ語ですからこの類の過失には寛容でありたいものです。

「預言者の息子」でないとすると、もう一つの可能性は「ネボ」という人名を父親と想定することです。この名前はユダヤ人ではありえません(イザヤ書46章1節)。この想定の場合には、バルナバが「レビ族の人」でもあるという情報との整合性が問われます。父親が非ユダヤ人でありかつレビ族であるということがいかに可能なのでしょうか。

ここでもう一つの情報、「バルナバが生まれで言えばキプロス人である」ということが生きてきます。父親のみキプロス人のネボであり、母親はキプロス在住の「離散ユダヤ人」であったとすれば説明ができなくもありません。父ネボは改宗してユダヤ人となったので、バルナバはキプロス人・ユダヤ人のダブルです。

1/3の主日礼拝での子ども説教では想像の翼をはばたかせて、バルナバの人生の苦労を紹介しました。キプロス島でもエルサレムでも、自らのアイデンティティに苦悩していたバルナバが教会に導かれたこと。そこではネボの息子という意味を持つバルナバという通称が、彼自身の名前となったこと。それほどに初代教会が多様な背景を持つ人々によって構成されていたこと。「あなたは高価で尊い」という福音によって救われたこと。それゆえに、バルナバは自らの土地/畑を進んで売却し、その代金を貧しい仲間たちのために献金したと推測します。 JK