レビ記全27章を愛読しているキリスト信徒はあまりいないのではないでしょうか。書のほとんどが祭儀律法だからです。現在行われていない儀式の詳細についてわたしたちの興味は薄いので、申し訳ないけれども退屈な内容です。ところが大方の予想に反してレビ記は新約聖書に16回も引用されています。48章もある大部なエゼキエル書がたった1回しか引用されていないにもかかわらず。
ただし大方の予想通りその引用の過半が19章に集中しています。この集中の原因はイエスにあります。イエスが「隣人愛」をレビ記19章から説き起こし再解釈した内容は、大切な規範として初代教会の実践に継承されていきます。キリスト教が「愛の宗教」と呼ばれるゆえんです。
キリスト者はレビ記をイエスの解釈の方から読み返す癖がついています。そのため19章以外はあまり知られていません。ここに新たな思考停止が生まれる土壌があります。いったん新約聖書と切り離して考えて、旧約聖書そのものが持っている使信に接近する必要があります。
そもそもレビ記は一冊の本ではありません。「五書(創・出・レビ・民・申)」という本の中の一部でした。五つの区分も書名も後代の作為です。五書の五分の四は奴隷の民イスラエルのエジプト脱出物語です。エジプトを逃げた民が約束の地に入る途中シナイ山に立ち寄り、そこで神は民と契約を交わし律法を授与します。このくだりは出エジプト記19章から民数記10章まで続き、レビ記は丸ごとここに入っています。途上の民を励ますための法律という文脈を理解すべきです。
定説は五書を一人の人の書下ろしと想定しません。バビロン捕囚下(前6世紀)、成立まもない信仰共同体は五書を礼拝に用いる正典宗教でした。いくつかの思想集団が五書の編纂にあたりました。その中に祭儀や祭司職に関心を持つ集団がいました。その人々は約束の地に帰還した後に、昔のように神殿を再建して犠牲祭儀を行うことを理想としていました。便宜的に「祭司集団(P)」と旧約学者が呼ぶ知識層。後にユダヤ教「正統」の一翼を担うことになる集団です。この人々は強烈に「聖」と「俗」を分け、「秩序」を重んじます。異国の地での混沌とした明日の見えない暮らしや、少数者としての礼拝実践がこのような思想を生んだのでしょう。JK