2021/05/19今週の一言

民数記は36章あります。「ミム(36)数記」と覚えると便利です。モーセ五書のうちの四番目に区分されている書です。

 民数記という区分も書名も紀元前3世紀のギリシャ語訳に由来します。ギリシャ語書名numeri(英語で言うNumbers)の由来は、人口調査を二回行っていることにあります(1章と26章)。しかしヘブライ語の小見出し(民数記1章1節冒頭の単語)は、「荒野にて」です。どちらかというとヘブライ語「荒野にて」の方が、民数記全体の要約としてふさわしいものです。なぜならば、民数記10章11節に再開される荒野の旅こそが全体を貫く物語だからです。出エジプトを果たしたイスラエルの民は、出エジプト記19章でシナイまで辿り着き、そこで長期間滞在しつつ律法を授かり、民数記10章で約束の地を目指して再出発します。長大な律法は移動式の礼拝施設「幕屋」の仕様や、祭儀の方法を細かく定めています。荒野を礼拝しながら移動する準備がシナイ山の麓でなされたのです。民数記は、荒野を旅する礼拝共同体の「再起動」の書です。

 再起動は旅の再開という意味だけにとどまりません。度重なる民の反抗に対して神は裁きとしてもう一つの再起動を仕組みます。荒野における「世代交代」という意味の再起動です。四十年間は約束の地に入ることを禁じ荒野を旅させ、出エジプトを果たした世代をすべて淘汰しようというのです(14章)。驚くべきことにその中には、ミリアム・アロン・モーセという三人の指導者も含まれています(20章)。極めて酷な判断です。例外はカレブ(ユダ部族)とヨシュア(エフライム部族)という人物だけです(26章65節)。こうして民数記に後続する申命記は、モーセの遺言という意味合いを持つこととなります。

 民数記は教会とは何かを考える時に非常に示唆に富んでいます。教会は、この世界という荒野を毎週礼拝しながら旅し続ける、未完の礼拝共同体です。自分が約束の地に入ることができるかどうかは分かりません。次の世代、次の次の世代と交代を繰り返しながら、励まし合って旅を続けていくのです。民の数を数えることもあるけれども、教会の本質は荒野における絶え間ない再起動です。JK