(前回からの続きです)
「慈しみ」「まこと」「正義」「平和」という四つの単語は、抽象概念でもあります。実はこの四つの抽象的な単語は、一つ一つが旧約聖書の中で重要な考え方を示す「神学用語」です。その四つがここで一つになっているということに、この箇所の固有の意義があります。ここでそれぞれを紹介します。
「慈しみ」はヘセドという単語です。ヘセドの意味は「誠実な愛」です。詩編の中では神から人へしか用いられません。そこで、新約聖書のアガペーに比べられることがあります。アガペーは神だけが持つ無条件の愛を指す言葉です。その一方ヘセドは「信頼に値する誠実さ」をも意味します。「信実」という翻訳もぴったりです。たとえばヘセドが複数形になるとハシディームという単語になりますが、それは神に対して忠実な民、すなわち「敬虔派」という意味に派生します(9節「主の慈しみに生きる人々」の別訳は「主に対して忠実な人々」)。愛にせよ信実にせよ、必ず相手を必要とするものです。相対的な関係概念です。人間社会の中で、神と人、人と人、人と被造物の関わりにおいて、日々変化しうるものです。
「まこと」はエメトという単語です。エメトは「確固たる真理」という意味合いを持ちます。「アーメン」と同根の派生語です。わたしたちは「アーメン」という言葉を会衆賛美や祈りの最後に添えて、「その通り、わたしも同意する」という意味で使っています。元々の意味合いは、「固くする、確かにする」というものです。たまたまヘブライ語アルファベットの最初の文字(アレフ)と真ん中ぐらいの文字(メム)と最後の文字(タウ)で構成されるので、エメトは辞書全部を包括する真理などと覚えます。これは絶対的概念です。人間社会の外から発生した、神だけが持つ理です。たとえば「天賦人権説(あらゆる人に生まれつき人権が備わっているという概念)」のような真理です。
「正義」はツェデクという単語です。日本文化は正義という言葉を嫌います。人の善悪を裁く物差しのように捉えるからでしょう。「正義justiceは人によって違う」とか、「自分の正義/権利rightを振りかざすな」とかと言われると、何となく賛成したくなります。つまり正義は相対的概念なのだと言いたいのでしょう。聖書における正義についても、そのことは妥当するのでしょうか。 (続く) JK