(前回からの続きです)
旧約聖書は正義を絶対的な概念ととらえています。絶対的な神の称号として用いられているからです。元来ツェデクは土着の神の名前と推測されています。それをイスラエルの民が呑み込んで、自分たちの神の肩書にしたのです。そこから発展して、絶対的なる正義は存在する、神と共にだけ存在すると信じられていきます。正義というものは大水、洪水、鉄砲水のように絶対的な力で社会を変えるものです。正義は、人間社会の外にある、神だけがもつ社会を前に動かす規範です。
「平和」はシャロームという単語です。シャロームの意味合いは「円満」です。欠けの無い球のようなものです。元々は「完了する」や「全うする」という意味から派生しています。だから平和は戦争の反意語ではありません。戦争がなければ平和なのではないのです。社会の中で少しでもへこんでいる(被差別)があればシャロームとは言い難いからです。アフガン戦争に引き寄せて言うならば、侵略戦争だけではなく、それ以前からあった米国住民ら富める人々とアフガン住民ら貧しい人々との経済格差や、西欧文化の植民地主義やアジア・アフリカへの差別が問題です。シャロームは相対的概念です。隣人にとっての円満・満足は自分とは異なりうるからです。平和は相手と共に作り出すものです。へこみは当事者しか知らないからです。神と人、人と人、人と被造物のそれぞれの関係を円満にするべく相手との対話の中でシャロームは作られるべきです。
ここで宿題に立ち戻りましょう。慈しみ(ヘセド)と平和(シャローム)の斜めの組み合わせです。この組み合わせに共通のものは、この二つが相対的関係性の概念であるということです。人間社会の外に由来する絶対的な理や規範ではなく、人間社会の中で私たち自身が概念そのものを創り出し、それを実践することが求められています。その中で、神に尋ね、隣人に尋ね、動植物に尋ねて、「一体何が慈しみなのか、何が平和なのか」を自分の頭で考えることです。詩編85編を作った作者が、あえて慈しみと平和という組み合わせだけを書かなかった理由は、「自分で考えなさい」という宿題がわたしたちに課されていることを示唆しているように思えてなりません。 JK