「メシアが何であるのかは旧約聖書を読めば分かる。メシアが誰であるのかは新約聖書を読めば分かる。」端的にキリスト教徒の立場での聖書の読み方を示す言葉です。救い主の「働き」が何であるのかの証言は、旧約聖書の中にたくさんあるということです。神はさまざまな人を通して、神の民を救っています。そして、それらの多種多様な救いのすべてを(否、それらすべてに優る救いを)、イエス・キリストがなしえた方であるということを、新約聖書は証言しています。
たとえばモーセとアロンとミリアムは、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から自由の身へと解放させました。キリストがわたしたちを罪(個人の原罪や社会の構造悪)の奴隷状態から解放したことと呼応しています。また、この三人は良い羊飼いとして、飢え渇く民の荒野の旅を導き養いました。イエスが自分の周りに集う人々を導き養ったことと呼応しています。
たとえばデボラという士師は民を裁判によって統治しました。その他の士師たちもサムエルに至るまで、法の解釈という方式で搾取されている民を救い出しました。イエスがファリサイ派の律法学者たちと法律の解釈をたたかわせて、法解釈によって苦しめられている民を救い出したことと呼応しています。
たとえばエリヤという預言者は、国家権力を批判し国策によって揺れる民に指針を示しました。イエスがサドカイ派の国策(神殿建築や神殿税による搾取)を批判したことと呼応しています。またエリヤは、自分の弟子(後継者)としてエリシャを従えました。この行為は、モーセとヨシュアにも当てはまります。同じようにイエスは自分の弟子を従えています。召しは救いでした。さらに治癒による救いをエリシャがエリヤから引き継いだことも、イエスと弟子たちの関係に似ています
詩編の多くはダビデに帰されています。ダビデが音楽によってサウル王にとり憑く悪霊を鎮めたように、イエスは悪霊祓いを行いました。
格言(箴言)はソロモンに帰されています。箴言(マシャル)の語源は比べることです。「これとあれは似ている」という考え方が基礎にあり、この技術に長けている人はイスラエルでは「知恵の教師」として尊敬されました。イエスはたとえ話の名手でした。その知恵により多くの民は明日を生きる力を得ました。
イエスが軍事的救いだけは拒否したことを留意しなければなりませんが。 JK