「哀歌」は分量的には小さい書ですが、その意義は非常に大きな書です。「旧約聖書神学の出発点」を証しする詩集です。哀歌は紀元前587年に起こった破局を生々しく描いています。いわゆる「バビロン捕囚」。当時西アジア最強を誇った新バビロニア帝国が南ユダ王国(ダビデ王朝)を滅亡させたこと、さらにユダの貴族たちを強制連行したことをバビロン捕囚といいます。長期間にわたる首都エルサレム包囲による城内の飢餓状態や、城内に侵入したバビロニア軍による蛮行、これらの悲劇に対する神への嘆きが哀歌全編にわたって歌われます。
詩人は「なぜヤハウェ神を信じる民が、他の神を信じる民に敗れたのか」という神学的に深刻な問いを発します。宮廷も住民も、「ヤハウェ神が住む神殿(ヤハウェの家)があるのだからエルサレムは不落である」という迷信を信じ抜いて、徹底抗戦を選んだために人的被害が広がりました。東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎への原爆投下にも似た図式です。
バビロニアの神々がヤハウェよりも勝っていたからダビデ王朝は滅んだのでしょうか。「否。そうではない」と哀歌は回答します。
ヤハウェ神がおのれの民であるイスラエルの「敵」となったのだというのです。新バビロニア帝国は「神の鞭」「懲らしめの道具」として、ヤハウェ神に用いられたに過ぎません。神がその民を裁いたのです。歴史の主はヤハウェ神です。だからヤハウェ神は神殿が焼き払われても死ぬことはありません。
神の民は思い上がってはいけないのです。むしろ自己絶対化や自己肥大、自分の主張ために神を利用しようとする祈り方から方向転換をしなくてはいけません。神は侮られる方でもないし、一民族の神でもない。バビロン捕囚を悔い改めのきっかけに転じたことが、信仰共同体の再興を促しました。嘆きは謙遜を生み、謙遜が信仰を生み、信仰は希望に帰着します。JK